1970年代後半、子どもたちがスーパーカー熱にとりつかれた
池沢早人師先生による漫画「サーキットの狼」(1975年連載開始)の爆発的人気をきっかけとして巻き起こった「スーパーカーブーム」は、ランボルギーニ「カウンタックLP400」とフェラーリの「BB」シリーズをアイドルとして推移していった。世の中のスーパーカーに対する熱気を原動力とし、子どもたちの周囲にある「ありとあらゆるモノ」をスーパーカーグッズにするという離れ業をやってのけたが、一大ブームとなった背景を振り返ってみよう。
モータースポーツの盛り上がりを背景に「サーキットの狼」がスタート
1973年に発生したオイルショックの影響で、日本の自動車メーカーがワークスチームでのレース活動を一斉に中止。そのような状況のなかでシグマオートモーティブ、ノバ・エンジニアリング、トムスといった現在でも日本のモータースポーツ界を支えている有力企業が業界の牽引役として誕生し、さらに「富士グランチャンピオンレース」やF2規定による国内トップカテゴリーレースの「全日本F2000選手権」が新設された。
池沢先生も、F2カテゴリーのレーシングカーが走るJAFグランプリを鈴鹿まで観に行き、日本人ドライバーのなかでF1グランプリにもっとも近い男と呼ばれていた風戸 裕選手が亡くなられたレースも現場で観ていたのだという。
「ずっとレースに夢中になってて、いつの日にかレースを題材とした漫画を描きたいと思っていた。トヨタ2000GTを所有していた時に連載していた“あらし!三匹”の連載終盤に、世界の名車によるカーチェイスみたいなことを描いたことがあった。本当は今すぐにでもレースの漫画を描きたかったけど、免許を持っていない子どもたちがメインの読者である週刊少年ジャンプにレースの漫画はありえない……という意見が編集者から出ていたので、2年間ぐらいは描きたくても描けなかった」とは、池沢先生から伺ったエピソードだ。
つまり、一旦下火になったモータースポーツが1970年代中盤にかけて再興したことをきっかけとして漫画「サーキットの狼」が誕生し、その後、スーパーカーブームが巻き起こったわけである。F1マシンやシルエットフォーミュラもブーム全盛時にアイドルとなったが、それは興隆のルーツがモータースポーツにあったからだと解釈できるだろう。
レーシングカーまでもが持てはやされたことからも分かるように、往時は「スーパーカー」というクルマに対する定義が曖昧。じつは今でもスーパーカーの定義は定まっていないと言えるが、1970年代の解釈は今日以上に大らかだった。
そのため、たしかに高性能だが、いかにも乗用車然としたBMW「2002ターボ」などもスーパーカーの仲間として語られたのだ。いま思うと、スーパーカーブームとは、異常な過熱ぶりを推進力とした特異なムーブメントであった。
クルマが買えない子どもたちの物欲をそそるグッズの数々
クルマの購買層ではない子どもたちが主役となったこともあり、商魂たくましい大人たちによって低年齢層への商品提供が盛んになされたこともスーパーカーブームの特徴だ。そのような状況のなかで、子どもたちが日々の生活にて使う、ありとあらゆるモノがスーパーカーグッズと化したのである。学校に持っていく筆箱、下敷き、消しゴムといった文房具類、衣類、ベルト、バッグ、腕時計、お茶碗、マグカップ、レコード、ゴミ箱といった日用品や生活雑貨までもが、フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ、BMWなどで彩られたのだ。
ちなみに、スマホやネット、SNSなどが存在していない時代にスーパーカー消しゴムの改造方法が全国共通だったのは、カプセルトイの手動式自動販売機が店頭に置かれていた駄菓子屋が媒体となり、街から街へと伝わっていったからだ。子どもたちの間で「カウンタックってドアが上方向に開くんだって!」というウワサも駄菓子屋を通じて浸透していったのである。
スーパーカーブームからスピンオフする形でラジコンブームが到来したが、やはり、その分野でも人気アイテムとなったのはスーパーカーおよびF1マシンなど、レーシングカーを題材とするアイテムだった。テレビ業界でもブーム全盛時にスーパーカー番組が製作され、「対決!スーパーカークイズ」が1977年7月4日から1978年10月2日まで放送された。そして、テレビアニメでも4輪レースを題材とした「マシンハヤブサ」が1976年4月2日から同年9月17日まで放映されるなどした。
各地で大小の「スーパーカーショー」が盛り上がった
朝から晩までスーパーカーに囲まれながら生活することになった子どもたちのスーパーカー熱はどんどん高まり、後楽園球場や晴海貿易センターを会場とした大々的な「スーパーカーショー」がたくさん開催されるまでに至った。それと並行し、百貨店の駐車場などでも地方巡業的な小さなスーパーカーショーが盛んに行われ、1971年生まれの筆者が一番最初に本物を見ることができたスーパーカーは、往時に家族でよく行っていた吉川百貨店(東京都町田市にあった)で子どもたちに披露された、ブルーのランボルギーニ「カウンタックLP400」であった。
戦後生まれのわが父親は北海道出身だが、仕事で内地に出てきてからは富士スピードウェイなどでレースを観戦していたそうで、510型の日産「ブルーバード」を愛用する根っからのクルマ好きであった。そういったこともあり、吉川百貨店(その昔、わが家は週末になるとオヤジが運転する510型/610型ブルーバードで吉川百貨店へと出かけ、店内のレストランでクリームソーダを注文するのが恒例行事となっていた)にカウンタックLP400が展示されるという情報をどこからともなく入手し、わざわざ筆者と弟を連れて行ってくれたのである。オヤジはスーパーカーグッズをたくさん買ってくれたので、それらは今でも大切に保管している。
70年代末、ブルートレインブームにバトンタッチ
1978年には鈴鹿サーキットでスーパーカーレースまで実施されたが、九九を覚えるかのごとく必死に各車のスペックを暗記し、カウンタックとBBの最高速対決に一喜一憂して、スーパーカー販売ショップ店頭での撮影にヒートアップし過ぎて強面のスタッフから水をかけられたりしていた子どもたちの興味が、同年の終わり頃から徐々にスーパーカーとは異なる方向へ向いていった。カメラを片手にスーパーカーを追い続けていた少年たちが、ブルートレインに代表される鉄道の撮影に心血を注ぐようになったのだ。
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自然消滅するかたちで、いつしか終焉を迎えたスーパーカーブームであったが、その名残りは40年以上が経過した今でもそこかしこに残っている。
現在はスマホさえあれば万事OKといった感じだが、かつては自動車雑誌やスーパーカーカードのような実在する物質から情報を得るしかなかった。そのため、誰もがモノに固執し、余計に盛り上がったと言える。
スーパーカーブームにインスパイアされた人々によるアクティブなカーライフ、そして一大ブームを生んだ各種アイテムは、日本固有の自動車文化の副産物(遺産)として今後も注目されていくだろう。