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今見ると新鮮! スズキ「フロンテクーペ」の凄すぎるスペックとは? ジウジアーロも関与したスタイリングも秀逸だった

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了

軽初のスポーツカーを標榜しレースでも孤軍奮闘の大活躍

 フロンテ・クーペが登場したのは1971年の9月でした。ベースとなったのはフロンテの3代目、フロンテ71でしたが、少し解説を付け加えておきましょう。1970年の11月に登場したフロンテ71は当初、2代目フロンテと同じ2ストローク3気筒の空冷エンジンを搭載していましたが、半年後の1971年5月には2ストローク3気筒の水冷エンジンを搭載したフロンテ71W=LC10Wが追加設定されていました。

 そのLC10Wをベースに2座のクーペボディを架装したモデルがフロンテ・クーペです。スタイリングは、イタルデザインを設立したイタリアの巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロが手掛けた原案をスズキの社内デザイナーが手直ししています。

 ジウジアーロ/イタルデザインの原案は背の高いベルリネッタ・デュオポルテ(2ドアセダン)だったので、それをベースに車高を引き下げてスタイリッシュな2ドアの2座クーペが完成したのです。このスタイリッシュなボディが架装されたシャシーはLC10Wそのもの。ダブルウィッシュボーン式/セミトレーリングアーム式で4輪独立懸架となる前後サスペンションだけでなく、2010mmのホイールベースも継承されていました。

 エンジンのLC10Wについても触れておきましょう。2ストローク3気筒で排気量は356cc。ボア×ストローク=52.0mmφ×56.0mmと同数値ですが、LC10Wは単にLC10にウォータージャケットを追加して水冷化を施しただけのエンジンではありません。

 吸気系にリードバルブを採用し、ピストンなどの主要パーツも設計しなおすなど、まるで新設計と言えるほどの改良が加えられていました。完成した水冷エンジンの重量は65kg。これは空冷のLC10に比べて7kgも軽く仕上がっていたのです。

 ちなみに37psの最高出力も、ホンダN360系ホットモデルの36psを上まわる軽乗用車トップレベル(最強はフェローMAX SSの40ps)となっていました。インテリアの豪華さも、ライバルを凌駕するものがありました。大径のスピードメーターとタコメーターをはさんで3つの小径メーター(スピードメーターの右に燃料計、タコメーターの左に水温系と電流計)を、そしてその左には時計が並ぶダッシュボードや、2脚のバケットシートなどは、軽初のスポーツカーを謳うに十分でした。

 LC10WエンジンといえばFL500/FL550レースで数えきれないほどの優勝を飾っていますが、それを搭載したフロンテ・クーペも、1970年代序盤に賑わいを見せていたミニカーレースで大活躍していました。それには高回転まで気持ちよく吹き上がるLC10Wエンジンの威力も見逃せませんが、じつはフロンテ・クーペにはライバルを一蹴するだけの秘密兵器があったのです。

 それは軽量だったことに加えて、リヤサスペンションの秘めたポテンシャルが高かったこと。レースでもライバルとなったのはホンダのN360/Z360、より正確にいうならN600用のピストンを組み込んだ500ccエンジンを搭載したN500/Z500でした。公認重量が不明なのでロードモデルでの比較になりますが、ホンダ勢に比べてフロンテ・クーペは40kgほど軽く、大きなアドバンテージとなっていました。

 しかしそれ以上に大きなアドバンテージとなっていたのがサスペンション。リヤがリーフ・リジッドだったホンダ勢に対し、フロンテ・クーペはセミトレーリングアーム式の独立懸架でした。それをレース用にチューニングするにあたってはアームをピロボール式に置き換えて、まるでレーシングカーのようなサスペンションに仕立て上げられていたのです。

 1970年代序盤の中国地方……中山サーキット(1971年開業)と野呂山スピードパーク(1970年開業、1974年閉鎖)、そして厚保サーキット(1972年開業。現在はマツダの美祢自動車試験場に)ではミニカーレースは人気のカテゴリーでしたが、エントリーの大半はN500/Z500のホンダ勢でフロンテ・クーペは孤軍奮闘していました。最終的には刀折れ矢尽きてしまい姿を消すことになりましたが、予選ではライバルを打ち負かすようなスピードでポールポジションを奪うことも度々でした。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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