映画史に一時代を築いた「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手
去る2022年9月13日にヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれた映画監督、ジャン=リュック・ゴダールが91歳で没した報が、世界中を駆け巡った。しかもカトリック的モラルの根強いフランスでは禁じられている尊厳死を選んだようで、スイスとの二重国籍でプロテスタント家庭出身の監督にしてみればあり得る選択肢とはいえ、死してなお世間を騒がせるスキャンダラスさが、じつにゴダールらしい。
というのも2年前にアンナ・カリーナ、昨年はジャン=ポール・ベルモンドと、ゴダール映画で名を馳せた2大スターが鬼籍に入って間もないこの時期、とくに前者は監督の最初の結婚相手だったので、彼らを追うようなタイミングで自死するゴダールを看取った3番目の妻にして脚本家、アンヌ=マリー・ミエヴィルの心中たるや、測り知れぬものがある。生き様も作品も死に様も事件だった、それがヌーヴェル・ヴァーグの巨匠ゴダールなのだ。
『勝手にしやがれ』:サンダーバードの屋根を開けて逃避行
そして若いころのゴダールは「男と女がいてクルマが1台あれば映画が撮れる」と、言ったとか言わなかったとか。実際、ゴダール作品には鮮烈に記憶に残るクルマの使われ方が多々ある。
1960年の処女長編作『勝手にしやがれ』(原題/A bout de souffre)は、ハンフリー・ボガートに憧れる不良にして与太者、ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェル・ポワカールがパリに上京するためマルセイユでクルマを盗み、途中の国道7号線で警官を殺してきた、という設定だ。一緒にローマへ逃げようと、パリでジーン・セバーグ演じるアメリカ人学生を彼は口説き続けるのだが、折々にそのアシとして登場する盗難車というのが、フォード・サンダーバードだ。
ほかにも作中にはシボレー・ベルエアやフォード・タウナス、プリマス・ベルヴェデールといったアメ車が背景に登場するが、ありふれた交通事故を主人公らの眼前で起こすのは当時、国営公団だったルノー4CVだったりする。ともあれ、高級車だらけで豊かになった社会の真ん中で起きているヤバめ男の顛末とともに、屋根を開け放ったサンダーバードの図太さは、やたら印象に残る。
『気狂いピエロ』:青と赤が織りなす破滅的な愛
クルマがワケあり男女の逃避行のアシとしてさらに際立つのは、1965年作の『気狂いピエロ』(原題/Pierrot le fou)だろう。青外装に赤内装のアルファ ロメオ1600ジュリア・スパイダーと、赤いアウトビアンキ・プリムラが、立ち木の周りで砂埃を景気よくまき上げてグルグル回りながら、それぞれの運転席に収まったままアンナ・カリーナとジャン=ポール・ベルモンドが、ドア越しのキスを交わす。これは2018年のカンヌ映画祭のポスターに採り上げられたほど、初期ゴダール作品を象徴する有名なシーンとなった。
ちなみに日本映画『万引き家族』がパルム・ドールを受賞した同年より50年前、フランスでは五月革命が吹き荒れ、毛沢東主義にハマってアクティヴィスト化していたゴダールは、ほかの若手監督らとともにカンヌ映画祭の中止を叫んでいたのだが。ともあれこのシーンで、妻子をパリに置き去りにして逃げてきた男と、武器の密輸組織に関わる危なっかしい元カノの関係は、別々のクルマに乗ったまま、その絶頂を迎えたといえる。
対照的にその後の展開では、同じく林のなかをふたりが、クルマではなく徒歩で動きながら、徹底的にすれ違うシーンがある。シラス・バシアックの曲を、拙い即興ミュージカル仕立てで口ずさみながら「生命線(ligne de chance)が短い」と悩む女のボヤきに、「いいからそれよりキミの腰つき(ligne de hanche)がたまらん」と、男がスケベオチで韻を踏む、コミカルで悲しいやりとりで、クルマを降りた男と女の間にははっきりとスキマ風が吹いている。このときのふたりの衣装も、青と赤だ。
そもそも死んだ売人のクルマでパリを脱け出したふたりは、警察や組織に追われながら、プジョー404の車内でイチャついたり、フォード・ギャラクシーを海に沈めたり。物質主義と消費社会の権化たるクルマを、とっかえひっかえ盗んだり壊したりしながら、セリーヌやランボーの引用をほのめかし続けるのだ。
『ウィーク・エンド』:クルマ=物質主義の狂騒と炎上
1950年代末から60年代初め頃は、ヌーヴェル・ヴァーグ一派ではないもののルイ・マルが『死刑台のエレベーター』でメルセデス・ベンツ300SLを効果的に挿入したし、スピード狂だった作家のフランソワーズ・サガンはタルボ・ラーゴT26グラン・スポールに乗っていた。ようはまだ、クルマが自由や解放をもたらす何かで、芸術家たちも特別なクルマにインスパイアされた時代だった。とはいえヌーヴェル・ヴァーグの若手監督たちは、ドアを外したかキャンバストップを下ろしたシトロエン2CVに、カメラをかついでハコ乗りするのが定番だったらしいが。
そんな牧歌的な時代が過ぎて、芸術家肌には生きづらい文明と社会の退廃をシニカルかつ悪意に満ちた視線で描いたのは、ゴダールの1967年作『ウィーク・エンド』(原題/Week-end)。老親の遺産を狙う主人公のブルジョワ夫婦がある週末、渋滞が常態化したパリ近郊の路上を進みながら、ありとあらゆる事故や暴力を目撃する。
週末のレジャーのためなら、他人をアオる・排除する・蹴散らす・殺すことすらいとわない、あらゆる社会階層の交通参加者たちが、シトロエンDS19にルノー16や4L、オースチン850ミニMk.1やシムカ1000、パナールPL17らに乗って、あるいはそこから降りてきては、血なまぐさい争いを繰り広げる。
無論、クルマで出かけるというレジャーや、ほの暗い欲望に憑りつかれたブルジョワたちをカリカチュラルに見せているわけだが、今日の日本の路上の現実もけっこう遠からぬような……。数台のクルマが折り重なって炎上するシーンは、ゴダールの毒気がこれでもかと炸裂する。劇場公開後の評判は当然、最悪で、ゴダールが極左運動に決定的に身を投じる直前の1本となった。
『カルメンという名の女』:魔性の美女とホンダ・クイント
もうひとつ、ゴダール作品で記憶に残る1台は、10数年を挟んだ1983年、『カルメンという名の女』(原題/Prénom Carmen)。プロスペール・メリメの小説『カルメン』を下敷きに現代仕立てにした枠組みで、マルーシュカ・デートメルス演じるヒロインに、憲兵隊の警官だった若者が破滅的に恋焦がれてしまう。
そこで久々に男と女の逃避行のためのクルマが登場するのだが、フィーチャーされたのはなんと、ライトブルーのホンダ・クイント。アコードとシビックの中間モデルで、後のインテグラに繋がっていく、ぱっと見に素晴らしく凡庸な、あのころの日本車ハッチバックだ。パッションとはほど遠い、直線的で生硬なボディラインが、ヒロインのファム・ファタル(宿命の女)っぷりと恐ろしく好対照で、80sビューティーの破壊力を引き立てる。
ところで作中にはベートーヴェンの弦楽四重奏曲が頻繁に用いられているのだが、ホンダ・クイントまたはローバー名クインテットとは、5枚続きのカードの上がり手とか五重奏のことで、音との関係で意味深にも思えてくる。
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いずれ、映像の意味や解釈はつねに後づけで観る者任せ、と監督はうそぶいていたが、まさしく巨匠の尖りまくった映像感覚は、いつぞや引用されていたアルチュール・ランボーの詩よろしく、永遠に再発見され続けるものなのだ。
いわゆる主人公に感情移入してRPGのように一体化して観て感じるみたいな、今どきの視聴スタイルにまるでそぐわない破天荒プロットがゴダールらしさそのものだが、直近の週末でもいつでも構わない、デジタルリマスター版DVDで観て後悔することは、決して多分、ないだろう。メルシー、ア・ビアントー、監督!