スポーツカーとしてのパフォーマンスも十分に備えていた
イギリスでは主要自動車メーカーの多くが外国資本となってしまいましたが、それでも趣味のクルマとして英国車は高い人気を保っています。今回は、そんな英国車のなかでも根強い人気の“カニ目”と呼ばれる名車に注目しました。
大衆車のコンポを使ったライトウエイト・スポーツの原点
“カニ目”の愛称で知られるオースティン・ヒーレー・スプライトは英国の自動車メーカー、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)が1958年から1971年にかけて生産した小型スポーツカーです。1958年5月に登場した初代モデル=MarkIは、1961年5月に2代目モデル=MarkIIが登場するまでの丸3年間に約4万9000台が生産されました。
オープンカーとしてはBMCで初となるモノコックボディを採用し、フロントにBMCのAシリーズ・ユニットを搭載。Aシリーズのオリジナルは1952年にオースティンA30に搭載されてデビューしていますが、これは803cc(ボア×ストローク=57.9mmφ×76.2mm)の排気量で最高出力は28HPでした。
1958年にヒーレー・スプライトMarkIに搭載されていたのは、1956年にオースティンA35に搭載されて登場した948cc(ボア×ストローク=62.9mmφ×76.2mm)版で、A35に搭載された仕様では最高出力は34HPでした。しかし、ヒーレー・スプライトMarkIに搭載された仕様では43HPにまでパワーアップされています。
モノコックフレームに組み込まれたサスペンションは、フロントがコイルで吊ったダブルウィッシュボーン式。リヤはトレーリングアームでアクスルを支持し、カンチレバー式の4分の1リーフスプリングで吊ったリジッド式です。ステアリング系はラック&ピニオン式とされていましたが、こうしたメカニカル・コンポーネントは、A35やモーリス・マイナーから転用されていました。
モノコックフレームは通常のフルモノコックとは異なり、キャビンの前方には2本のフレームが伸びるだけで、通常のフルモノコックではモノコックとして成形されるフロントカウル(両サイドのフロントフェンダー&ボンネット)は一体の別ピースで成形。フロントウインドウ直前に設けられたヒンジによって一体で跳ね上げられ、エンジンルームのサービス性を大きく向上させています。
そのフロントカウルのスタイリングは特徴的で、そのことによってヒーレー・スプライトMarkIの個性は際立たせられていました。日本では“カニ目”の愛称で親しまれていますが、イギリス本国では“Frogeye(フロッグアイ=蛙目)”、また米国では“Bugeye(バグアイ=虫の目)”と呼ばれ、それはボンネット上にちょこんと乗せられたヘッドライトを指しています。
そもそもの企画段階ではリトラクタブルヘッドライトの一種であるポップアップ式……通常はヘッドライトがボンネット面と一面になっていて、作動時には起き上がるタイプが提案されていました。ですが、コストの面から固定ユニットがボンネット上に取り付けられることになったのです。
確かに、空気抵抗の面ではマイナスとも考えられますが、コストカットはもちろんのこと、“カニ目”とか“Frogeye”、“Bugeye”と世界各地で愛称がつけられて人気を得たことを考えれば、この“作戦”は大成功だったと考えていいでしょう。
ちなみに、米国車では1940年代末期にクロスリー(英国で20世紀の前半に活動していたクロスリー・モーターズとは無関係な米国のメーカー)がリリースしたホットショットが、同様なヘッドライトを採用しています。
ともに排気量1L以下のエンジンを搭載したライトウェイト2シーターでしたが、こちらは地元である北米ではともかくとして、少なくとも日本国内においては、オースティン・ヒーレー・スプライトMarkIほどには人気を集めることはなかったようです。
軽量コンパクトで十分なパフォーマンス。RACラリーでも活躍
オースティン・ヒーレー・スプライトMarkIの最大の美点は、安価にして、かつ軽量に仕上げられていたことでしょう。安価に、という観点で見ていくなら、オースティンのA35やモーリス・マイナーなどの小型量販モデルのパーツを流用することで、生産コストが引き下げられたことが大きな要因となっています。
またモノコックフレーム/ボディにしても、エンジンなどに対する整備性を考慮して、フロントフードをボンネットから左右フェンダーまでを、モノコックとは切り離して一体成型。その一方で、リヤにはトランクフードを設けず、運転席後方にマウントしたスペアタイヤや荷物などを取り出すには、シートバックを倒して引き出すよう割り切って設計されていました。
使い勝手という観点からは決して褒めたことではないかもしれませんが、(スペアタイヤなどを)引き出す頻度を考えるなら、そうすることでボディを軽量に仕上げるとともに、高いボディ剛性を確保することができた方が、クルマとしてはより大きなメリットとなる、と判断したことが好結果に繋がったのです。残念ながら(と言っていいかは議論の分かれるところですが)1961年に登場した2代目=MarkIIでは、トランクリッドが新設されて使い勝手は良くなったものの、剛性的には厳しくなったようです。
またフロントビューに大きく手が加えられ、左右のフェンダーが高いまま前進。その先端にヘッドライトが埋め込まれてモダンではあるものの没個性なスタイリングとなり、ボンネットフードが単体で開閉するように改められたのも、2代目=MarkIIの大きな特徴となっています。
結果的に車両重量の増加もわずか25kgに抑えられていますから、これらの変更点については、先にふれたように議論が分かれるところですが、MarkIの個性が失われたのは残念です。
オースティン・ヒーレー・スプライトMarkIの、全長×全幅×全高の3サイズは3490mm×1350mm×1210mmで、これはダイハツ・コペンの3395mm×1475mm×1280mmと比べても95mm長く125mm狭く、90mm低い数値で、似たようなサイズ感と言っていいでしょう。
ウエイト的には640kgのオースティン・ヒーレー・スプライトMarkIは850kgのコペンより210kgも軽量ですから、最高出力が43HP(ちなみにコペンは64ps)に過ぎなくても、当時としてはまずまずのパフォーマンスだったと考えられます。
その一方でラック&ピニオン式のステアリングはクイックなギヤ比を採用するなど、ドライビングフィール的にオースティン・ヒーレー・スプライトMarkIは、ライトウェイト・スポーツらしい味付けとなっており、元来がドライビングを楽しめるクルマとして設計されていました。
そんな特性もあり、オースティン・ヒーレー・スプライトMarkIはモータースポーツでも活躍しています。代表的なところでは1960年に行われた第10回RACラリー (現ウェールズ・ラリー of グレート・ブリテン)では優勝したエリック・カールソン組のサーブ96に続いて、ジョン・スプリンツェル組のオースティン・ヒーレー・スプライトMarkIが2位入賞を果たしています。
ちなみに、カールソン組のサーブはこの年から1962年の第11回大会まで3連覇を果たしていた絶対王者でした。また、スプリンツェル組に続いてドナルド・ジュード・モーリー組のオースティン・ヒーレー3000が3位に入賞。つまり排気量が1L未満のオースティン・ヒーレー・スプライトMarkIは、2.9L直6エンジンを搭載した本格的なスポーツカーに先んじて、ラリーを走り切っていたのです。
ヘッドライトをボンネットに載せた可愛くて愛嬌たっぷりなルックスからは信じ難いのですが、スポーツカーとしてのパフォーマンスも十分に備えていたと言ってもいいでしょう。こんな二面性も、ヒーレー・スプライトMarkIの大きな魅力です。