マシンは前年モデルの正常進化! 最高出力を上げ車両重量を軽量化
F1参戦2シーズン目となった1965年シーズンは前年モデル、RA271を正常進化させたニューマシン、RA272で戦うことになりました。ドライバーもロニー・バックナムに加えてリッチー・ギンサーを迎え入れ2カーエントリーで参戦体制を強化していました。
60度V12を横置きマウントするエンジンは、RA272Eと名称が変わっただけでなく各部がリファインされ、具体的には最高出力が230bhp以上にパワーアップしていました。これを搭載するシャシーも正常進化し、基本レイアウトは変更ないものの、車両重量が498kgと500kgの大台を割り込むところまでシェイプアップされていました。
体制強化に時間がかかり開幕戦の南アフリカGPをパスして臨んだ第2戦のモナコGPでは、2台ともにトラブルでリタイアしてしまいました。ですが、ホンダにとっての第2戦目、シリーズ第3戦のベルギーGPでは予選4位と好位置からスタートしたギンサーが6位入賞。ホンダにとってはデビュー戦から6戦目で初ポイントを獲得することになりました。
第6戦のオランダGPではギンサーが予選3位となり、フロントローからスタートした決勝レースで2度目の6位入賞。続く第7戦のドイツGPはニュルブルクリンクが舞台でしたが、ハイパワーを最大の武器とするホンダにとっては第8戦、モンツァで行われるイタリアGPに勝負をかけるべくドイツGPをパスしてマシンの改良を進めています。
そのイタリアGPではバックナムが予選6位と好位置をゲット。しかし決勝では2台ともに中団グループに飲み込まれ、ともにエンジントラブルでリタイアとなっています。続く第9戦のアメリカGPではギンサーがふたたび予選3位とフロントローを確保。決勝では入賞に一歩届かないながらもギンサーが7位、バックナムも13位で2台揃って完走を果たしています。
そしていよいよ、シーズン最終戦となるメキシコGPを迎えることになりました。
1.5Lエンジン最後のレースで初優勝
メキシコGPの舞台は首都メキシコシティにあるアウトドローモ・エルマノス・ロドリゲス(当時はアウトドローモ・リカルド・ロドリゲス)ですが、メキシコシティ自体が海抜2200mの高地にあって、空気が希薄なため燃料の濃さ(空燃比)の調整が重要な戦略となってきます。
その意味でホンダが独自に採用していた低圧の燃料噴射システムは有効だったようです。18台が出走した公式予選ではギンサーがポールシッターのジム・クラーク(ロータス・クライマックス)から0.31秒差の3位につけてセカンドローを確保。バックナムも10番手につけて決勝に期待が高まりました。
その決勝ではギンサーがホールショットを決め、1コーナーでトップに立つとトップをキープしながらレースをリードしていきました。ポールからスタートしたものの8周でエンジントラブルに見舞われリタイアを喫したクラークに代わり、逃げるギンサーを猛追したのは2番手スタートのダン・ガーニー(ブラバム・クライマックス)でした。
トップ争いのバトルはレース終盤まで続きましたが、ギンサーは最後の最後までトップの座を保ったまま、325kmのレースを2.8秒差で逃げ切ってトップチェッカー。ホンダに初めての優勝をもたらすことになりました。僚友のバックナムも5位でチェッカーを受けホンダはダブル入賞。
翌1966年からはエンジン規定が排気量3L以下に変更されることが決定していたので、これが1.5L規定でのラストレースとなりました。ホンダはデビューからわずか11戦、しかも記念すべきメモリアルレースでの初優勝。グランプリ・レースのメンバーとして受け入れられたのも、当然の結果と考えて良いでしょう。