記念すべきメモリアルレースでの初優勝
新型コロナが感染拡大した影響で、一昨年と去年は開催中止となったF1日本GPですが、2022年は3年ぶりの開催となりファンの期待もMAXとなってきました。今回はホンダが初優勝を果たしたRA272を振り返ります。
エンジン供給の予定が一転……
ホンダ(本田技研工業)が、初めてF1GPに参戦したのは1964年のこと。F1GPは言うまでもなく、4輪モータースポーツの世界最高峰ですが、当時のホンダは、オートバイメーカーとしては世界的にも知られるようになってきていました。4輪車事業に関してはこの前年に初の4輪製品となる軽トラックのT360を発売したばかりの、文字通りの新参メーカーでした。
2輪においても1959年にマン島TTレースに初参戦し、1960年からロードレース世界GPに本格参戦を始めて、1961年にはマン島TTレースでマイク・ヘイルウッドにより初優勝を飾っていますが、まだまだ新参の挑戦者だったのです。そんなホンダがF1GP参戦を決めたのは、創業社長である本田宗一郎さんの「技術は世界の頂点で磨かれる」との想いから。
そしてまだまだ自由闊達で、技術的にも発展途上だったF1GPにおいて、エンジンサプライヤー(エンジン供給者)としての参戦を計画したのです。当時のF1GPにおけるエンジン規定は、1961年から排気量1.5L以下と決まっていたために、V型12気筒エンジンを横置きに搭載するスタイルで開発することになり、同時にエンジンを使用するチーム(シャシー・コンストラクター)を探し始めていました。
当時のF1GPに参戦していたチームのなかで、フェラーリとBRM(British Racing Motors)は自製のエンジンをもっていたために、供給先の“候補者リスト”から外し、ほかの有力チームのうちブラバムとロータス、クーパーのなかからブラバムを本命に挙げてエンジン開発を進めていました。
ところが1963年秋にロータスのコリン・チャップマンが来日、直々にホンダの本社を訪れてエンジン供給を持ち掛けたのです。ここでプロジェクトは方針を変更。ロータスへの供給を前提に、その主戦マシンであるロータス25に合わせてエンジンの開発を進めることになりました。
コンストラクターとしての参戦となり自製シャシーを開発
ところが、1964年2月にチャップマンから電報が届き、ホンダ・エンジンを使用できない、と一方的に宣言されました。エンジンは完成間近でしたが、今度はそれを搭載するシャシーを選定する必要が出てきたのです。シーズン開幕まで時間がなく、ホンダはオリジナルの自製シャシーを製作する作戦に切り替えることになりました。こうしてコンプリートでホンダ製のF1マシン、RA271が誕生することになりました。
RAはレーシング・オートモービル (Racing Automobile)を表し、エンジンテスト用の270の改良モデルなので271。この数字は「最高速度が270km/h程度」という意味合いでした。
RA271に搭載されたエンジンはV型12気筒を横置きマウントするRA271E。12気筒が選ばれたのは、気筒辺り125cc なら2輪ロードレースの世界GPでも手馴れているからで、750ccのV6を2基繋げた格好となり、パワーもクランク中央部から取り出すスタイルとなっています。
バンク角は60度。排気量は1495cc(ボア×ストローク=58.1mmφ×47.0mm)で最高出力は220bhp以上。V8のフェラーリでさえも205bhpで、パワー的にはライバルを圧倒しています。気筒辺り4バルブのバルブ・レイアウトは、F1GPでもまだ何所も採用していない最新テクノロジーでした。
ただしトランスミッション込みで209kgと重く、ハイパワーも帳消しとなっていました。RA271のシャシーはモノコックでしたがボディ最後端までのフルモノコックではなく3/4モノコック、つまりモノコックはコクピットの背後までで、その背面にエンジンをストレスマウントし、それをサブフレームで補強しながら、リヤサスペンションのマウントなどを、このサブフレームに取り付ける、というスタイルになっています。
ただし、V12エンジンを横置きマウントしたことでモノコックは大柄になってしまい、重量的にもエンジンを搭載した状態でのコンプリートで525kgもありました。レギュレーション上の最低重量=450kgを大幅にオーバーしていました。
サスペンションはコンペティティブな前後ダブルウィッシュボーン式でしたが、フロントはロッキングアーム式アッパーアームを採用してコイル/ダンパーユニットをインボードマウントするなど、先進なメカニズムを採用していました。
1964年のドイツGPとイタリアGP、そしてアメリカGPの3戦に出場し、速さを見せることはできましたが、3戦ともにトラブルからリタイアしてしまい、結果を残せないままファーストシーズンを終えています。
マシンは前年モデルの正常進化! 最高出力を上げ車両重量を軽量化
F1参戦2シーズン目となった1965年シーズンは前年モデル、RA271を正常進化させたニューマシン、RA272で戦うことになりました。ドライバーもロニー・バックナムに加えてリッチー・ギンサーを迎え入れ2カーエントリーで参戦体制を強化していました。
60度V12を横置きマウントするエンジンは、RA272Eと名称が変わっただけでなく各部がリファインされ、具体的には最高出力が230bhp以上にパワーアップしていました。これを搭載するシャシーも正常進化し、基本レイアウトは変更ないものの、車両重量が498kgと500kgの大台を割り込むところまでシェイプアップされていました。
体制強化に時間がかかり開幕戦の南アフリカGPをパスして臨んだ第2戦のモナコGPでは、2台ともにトラブルでリタイアしてしまいました。ですが、ホンダにとっての第2戦目、シリーズ第3戦のベルギーGPでは予選4位と好位置からスタートしたギンサーが6位入賞。ホンダにとってはデビュー戦から6戦目で初ポイントを獲得することになりました。
そのイタリアGPではバックナムが予選6位と好位置をゲット。しかし決勝では2台ともに中団グループに飲み込まれ、ともにエンジントラブルでリタイアとなっています。続く第9戦のアメリカGPではギンサーがふたたび予選3位とフロントローを確保。決勝では入賞に一歩届かないながらもギンサーが7位、バックナムも13位で2台揃って完走を果たしています。
そしていよいよ、シーズン最終戦となるメキシコGPを迎えることになりました。
1.5Lエンジン最後のレースで初優勝
メキシコGPの舞台は首都メキシコシティにあるアウトドローモ・エルマノス・ロドリゲス(当時はアウトドローモ・リカルド・ロドリゲス)ですが、メキシコシティ自体が海抜2200mの高地にあって、空気が希薄なため燃料の濃さ(空燃比)の調整が重要な戦略となってきます。
その意味でホンダが独自に採用していた低圧の燃料噴射システムは有効だったようです。18台が出走した公式予選ではギンサーがポールシッターのジム・クラーク(ロータス・クライマックス)から0.31秒差の3位につけてセカンドローを確保。バックナムも10番手につけて決勝に期待が高まりました。
その決勝ではギンサーがホールショットを決め、1コーナーでトップに立つとトップをキープしながらレースをリードしていきました。ポールからスタートしたものの8周でエンジントラブルに見舞われリタイアを喫したクラークに代わり、逃げるギンサーを猛追したのは2番手スタートのダン・ガーニー(ブラバム・クライマックス)でした。
トップ争いのバトルはレース終盤まで続きましたが、ギンサーは最後の最後までトップの座を保ったまま、325kmのレースを2.8秒差で逃げ切ってトップチェッカー。ホンダに初めての優勝をもたらすことになりました。僚友のバックナムも5位でチェッカーを受けホンダはダブル入賞。
翌1966年からはエンジン規定が排気量3L以下に変更されることが決定していたので、これが1.5L規定でのラストレースとなりました。ホンダはデビューからわずか11戦、しかも記念すべきメモリアルレースでの初優勝。グランプリ・レースのメンバーとして受け入れられたのも、当然の結果と考えて良いでしょう。