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スーパーカー世代のF1といえば6輪「ティレルP34」でキマリ! なぜ6輪を採用し消えていったのでしょうか

ティレルP34のフロントスタイリング

時代に恵まれなかった悲運の1台

 F1日本グランプリも3年ぶりということで、ファンも大いに盛り上がっています。近年では技術開発が行き着いたのか、はたまたレギュレーションによる規制が厳しすぎるからなのか、ユニークなマシンを見る機会が少なくなってきましたが、かつては型破りなマシンも数多く見受けられました。その最たるもののひとつが、ティレルP34です。F1は4輪モータースポーツの最高峰といいますが、ティレルP34は何と6輪車だったのです。

F1GP参戦2シーズン目にダブルタイトルを獲得したティレル

 英国で材木商として財を成したケン・ティレルは、ドライバーとしてレースにも参戦していました。ドライバーとして結果を残すことはできませんでしたが、1958年にレーシングチームのティレル・レーシング・オーガニゼーションを設立します。

 ジュニア・フォーミュラを経て、1968年にはF1GPにも進出。以後もチームオーナーとして活躍することになります。F1GPでは、最初にマトラとジョイントしてセミワークスチームを運営することに。1968年のシリーズ第5戦・オランダGPでジャッキー・スチュワートが初優勝を飾ると、スチュワートはドイツとアメリカでも優勝。都合3勝を挙げてランキング2位となり、コンストラクターズカップでもロータス、マクラーレンに次ぐ3位につけていました。

 そして翌1969年には、11戦中6勝をマークしたスチュワートがドライバーチャンピオンに輝くとともにコンストラクターズカップでもトップに立ち、見事ダブルタイトルを奪っています。これで名実ともにチームとなったティレルは、1970年にはマトラと決別し、自らコンストラクターとしてオリジナルマシンを開発することになりました。

 1970年シーズンのはじめは“市販”モデルのマーチ701を使用していましたが、13戦で戦われるシーズンも終盤を迎えた第11戦のカナダGPにて、オリジナルマシンのティレル001がデビューします。スチュワートがいきなりポールを奪うと、決勝でも終盤までトップを快走。残念ながらトラブルでリタイアに終わりましたが、その高いポテンシャルをライバルチームに見せつけることになりました。

 翌1971年シーズンにはスチュワートが全11戦中6勝をマークし、自身2度目のワールドチャンピオンに輝いています。またスチュワートに加えてフランソワ・セヴェールにもオリジナルマシンのティレル002が与えられますが、セヴェールは最終戦のアメリカGPで初優勝を飾り、シリーズランキング3位に輝いています。

 コンストラクターズカップでもティレルは7勝で73ポイント。2勝ずつをマークしたBRM(36点で2位)やフェラーリ(33点で3位)らにダブルスコアと圧倒的な強さで、1969年に続いて2度目のダブルタイトルを飾っていました。

 そんなティレルでクルマのデザインを担当していたのは、デレック・ガードナーでした。オートマチック変速機の研究開発を手掛けていた彼は、マトラのドライブシステムを開発したことがきっかけでレースに関わるようになりました。そしてティレルがマトラと袂を分かつ際にケン・ティレルに誘われ、ティレルのチーフデザイナーとして働くことになったのです。

 彼はF1GPカーを設計する上で、タイヤによる空気抵抗を何とか低減したいと考えていました。ティレル003や006でスポーツカーノーズを採用したのも、フロントタイヤをスポーツカーノーズで覆うことで、空気抵抗を低減できるのでは、との想いからでした。そして、その想いを徹底したのがP34です。

 フロントタイヤを一般的な13インチ径から10インチ径に小径化することで、あまり大きくないサイズのスポーツカーノーズでも、フロントタイヤを覆ってしまうことができ、それが空気抵抗の低減=トップスピードの向上につながる、との考えだったのです。フロントタイヤを小径化することで、タイヤの接地面が小さくなりハンドリングとブレーキングでネガティブな効果も考えられましたが、それに対してはフロントを4輪にすることで補える、とも判断していました。

 ただし、ケン・ティレル御大が、ガードナーの提案に100%信頼を置いていたかはハッキリしていません。それは1975年シーズンを戦ったマシン=ティレル007の後継として1976~1977年の2シーズンを戦ったマシンの型式名が開発記号であるP34(Project 34)のままで、1978年に登場した新型車両がティレル008と名付けられていたことからも想像できるでしょう。

 そう、ティレルP34はある意味、ティレルのGPマシンでは本流でなく傍流ということかもしれません。ただしデビューシーズンには7戦目で1-2フィニッシュを飾り、前年のコンストラクターズカップ5位から3位にジャンプアップしていたことからも、クルマとしての戦闘力は決して悪くなかったのですが、時代には恵まれなかったのは事実です。

熟成に手間取った面もあったがタイヤ開発の遅れが響いた

 ティレルP34は、アルミパネルで構成されたツインチューブの3/4モノコックに、フォード・コスワース製で3L V8のDFVユニットを搭載。後方にはヒューランド製の縦置き5速ミッションが組み付けられていました。

 サスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーン式で、リヤはアッパーがIアーム、ロワーがパラレルのIアームで、上下一対のラジアスロッド付き。フロントはアッパーがIアーム+トレーリング/リーディング・アームでロワーがAアームと、極めてコンベンショナルなパッケージでした。

 ただフロントが4輪であることを除けば(!)、そのフロントサスペンションは左右が対称とされただけでなく、前側と後ろ側をも対称……メインのIアームに前側はトレーリング・アームを、後ろ側はリーディング・アームを組み合わせていました。

 操舵機構はさぞや複雑に、と心配されましたが、ステアリングロッドは前側のハブに繋がり、後ろ側のハブは前側のハブとベルクランクで繋ぐシステムが考案されました。トップスピードのアドバンテージを築くために空気抵抗を低減しようと考えられたシステムですが、フロントタイヤによるエアフローの乱れが小さくなり、リヤウイングの空力効果が高まるということも狙っています。

 こちらは狙い通りだったのですが、接地面積を稼ぐためにフロントを4輪にしたことで、制動力が大きくアップしたのは予想した以上の効果があったようです。

 時代に恵まれなかった……についても説明しておきましょう。タイヤが細く、トレッド面には溝が彫られていたころから、F1GPにはいくつものタイヤメーカーが参戦していました。それが1970年代になるとグッドイヤーの独壇場となっていきます。そうなるとタイヤメーカーの方でも必要以上のタイヤ開発を控えることになります。

 しかし、1970年代終盤になるとミシュランが本格参戦に名乗りを挙げます。後発組のミシュランとしては、王者グッドイヤーにひと泡吹かせようと開発が急ピッチで進んでいきました。こうなると当然ですが、グッドイヤーもより高性能なタイヤを目指して開発を進めていったのです。

 両タイヤ陣営と、それぞれに属するチームがイコールコンディションならば、これは面白い展開が期待できるのですが、この場合、ティレルにとってはとても厳しい現実が待っていました。グッドイヤーが開発に際してリヤの13インチに加えてフロントも13インチのタイヤのみを開発し、ティレル専用だった10インチのフロントタイヤは、開発の波から取り残されてしまいました。

 もちろん勝つための開発で、しかも開発のリソース(予算と人手)は限られていますから、ティレル専用のフロント用10インチタイヤが開発から取り残されたとしても、グッドイヤーを責めることはできません。1977年シーズンにティレルP34の成績が急降下したのには、そのような理由があったのです。

 ちなみに、フロントのグリップ不足に対処しようとトレッドを拡幅したテストも行われたようですが、トレッドを広げたことでフロントタイヤがスポーツカーノーズの横からはみ出てしまい、好結果にはつながらなかったようです。

 マーチやブラバムなども6輪車のテストをしていましたが、ルールが改正されてタイヤは4輪に限る、と明文化され、P34は活動を1977年限りで休止。ティレルも1978年に向けては4輪の008を製作していました。

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