「GT-R」を名乗れなくとも史上最強のスカイラインGTに
歴代スカイラインの中で、高いパフォーマンスを有するホットモデルでありながら、6気筒の特別なエンジンを搭載していないことを理由にGT-Rを名乗れなかったモデルとしては、1981年8月に5回目のフルモデルチェンジで登場した6代目スカイライン(R30型)に、同年10月に追加設定された「RS」があります。ちなみに、RSとはRacing Sport(レーシングスポーツ)の略。
車両型式がDR30型となっていますが、こちらに搭載されていたエンジンはFJ20E型。S20型と同様に、ツインカムで気筒あたり4バルブと高度なメカニズムが採用され、1990cc(φ89.0mm×80.0mm)の排気量から150psの最高出力を絞り出していました。ただし6気筒ではなく4気筒だったがために、スカイラインRSはGT-Rを名乗ることができなかった、と伝えられています。
GT-Rを名乗ることはできませんでしたが、FJ20Eにターボを装着したFJ20ET(最高出力は190ps)や、さらにインタークーラー付きのFJ20ET(最高出力は205ps)と、マイナーチェンジのたびにエンジンが強力になり、誰言うともなく「史上最強のスカイライン」と讃えられるようになりました。そう、205psの最高出力は、S20型に対して3割近くもハイパワーになっているのですから、単なる社交辞令ではなく、ファンの心からの誉め言葉でした。
6代目スカイラインは1983年のマイナーチェンジで、とくにRS系ではラジエターグリルのバンパー上の部分を取り去ってグリルレス(バンパー上に2本のスリットを残し、バンパー下のアンダーグリルも残されています)とし、ヘッドライトも薄型のものに変更して、フロントビューのイメージが大きく変わっています。前期型には「ニューマン・スカイライン」の愛称がつけられていましたが、後期モデルは「鉄仮面」と呼ばれています。
圧倒的な速さを誇った「トミカ・スカイライン・ターボ」
そんな「鉄仮面」は、サーキットでの活躍も多くのファンの記憶に刻み込まれているはずです。それは赤と黒のツートーンカラー、いわゆるRSカラーに塗られたスーパーシルエット(グループ5仕様)、トミカ・スカイラインです。
1970年代から80年代にかけて、富士スピードウェイを代表するスポーツカーレース、富士グランチャンピオン(GC)レースのサポートイベントとして開催されていた富士スーパーシルエット(SS)レースでは当初、フェレディ240ZやサバンナRX-7を改造したレースカーによるバトルが繰り広げられていました。そこに登場したのがシルビア・スーパーシルエット・グループ5や、ブルーバード・スーパーシルエット・グループ5とともに「日産ターボ3兄弟」として名を馳せたスカイライン・スーパーシルエット・グループ5でした。
このネーミングは日産のヘリテージ・コレクションでのネーミングですが、ファンにとってはシルビア・ターボとかブルーバード・ターボの方が、きっと馴染みがあるでしょう。さらにスカイラインの場合はトミカ・スカイライン・ターボの方がしっくりくると思います。
それはともかく、この3兄弟はノバ・エンジニアリングで製作したシャシーに日産が仕立てた直4ターボのLZ20Bを搭載し、ムーンクラフトでデザインしたエアロをまとっていましたから、基本的には同じマシンということになります。
しかし、3台の中ではもっとも完成が遅く、デビューも最後になったトミカ・スカイライン・ターボですが、その成績と存在感は圧倒的でした。1982年から1984年にかけての3シーズンで19戦に出場し予選では7回にわたってポールを奪い15戦でフロントローに並んでいて、決勝でも半数の9戦(19戦のうち1戦は雨天決勝中止)で優勝を飾っています。
これをスカイラインと呼ぶかは意見の分かれるところですが、それでも長谷見昌弘さんが企画して旧プリンス系のディーラーが支援してプロジェクトが進められ、富士のレースでは「お客さんが応援で立ち上がるからスタンドが揺れていた」と長谷見さんも回想するほどの人気を博していたのは事実です。さらにフロントビューもデビュー当時は前期型のグリルが装着されていましたが、マイナーチェンジに合わせて後期型では「鉄仮面」に切り替えられていました。これはもうスカイラインRSの栄光の歴史に加えるべき1台、神話の1ページと言っていいでしょう。