ケンメリGT-Rは時代の転換を実感させる貴重な存在
北海道美瑛町にあるポプラの木が、ケンメリ・スカイラインの宣伝広告で有名になった4代目に、GT-Rが加えられたのは、1973年のことだった。
GT-Rとしての初代は、前型のいわゆるハコスカと呼ばれる3代目だ。プリンス自動車工業時代の2代目スカイラインが、直列6気筒エンジンを搭載したGTで日本グランプリを戦った成果を引き継ぐかたちで、日産スカイラインとなった3代目にGT-Rは誕生した。
Rが付くことで、それはまさにレースで勝つことを目指して開発され、50連勝という伝説の成績を残したのである。その衝撃はあまりに大きく、ケンメリ・スカイラインでもGT-Rの継承が望まれた。
排ガス規制の影響を受けたケンメリGT-R
一方、世界の自動車メーカーは、1970年に始まる排出ガス規制への対応で苦慮していた。日本の自動車メーカーも、全社が対応に追われ、1969年までメーカー同士の決戦とされた日本グランプリへの出場を、日産もトヨタも1970年には辞退している。メーカー主導のモータースポーツは一気に下火となり、代わって個人でのレース参戦が華を開くようになる。そうした情勢のなかで、ケンメリ・スカイラインにGT-Rが継承されるかどうか予断を許さなかったのであった。
1972年にスカイラインがモデルチェンジをし、翌1973年にGT-Rが現れた。それによってふたたびレースで活躍するかと期待され、東京モーターショーにはレース仕様車のような出展もあったが、結局、レースを戦うことなく、197台の販売で終わった。そして16年後のR32 GT-Rの復活まで、GT-Rの名称は封印されたのである。
ハコスカとは違う“ひとつの熟成された”手応えがケンメリGT-Rにあった
1973年に私は18歳となり、運転免許証を取得した。それから45年を経て、旧車の扱いとなったケンメリGT-Rを山間で運転する機会を得た。所有者のあるクルマでもあり、旧車でもあり、扱いに緊張したが、ダブルクラッチを使いながら丁寧に走ると、想像以上に運転が容易であるのに驚いた。エンジンは低回転域から確かなトルクがあり、それでいて高回転域まで伸びやかに回る。そのトルク特性のゆとりによって運転を容易にしたのだろう。
排出ガス規制が始まるのは昭和48年(1973年)からだが、ケンメリGT-Rは当時の有鉛ガソリン(高圧縮比でのノッキングを抑えるため鉛を含有したが、排出ガス浄化を行う触媒を鉛は劣化させる)を使う規制前の仕様であり、昔ながらのエンジンの活き活きとした様子を体験できたのも、懐かしい。
ハコスカGT-Rは、もっとトルク特性が気難しく、運転は難しかったようだ。基本的には同じS20型直列6気筒DOHCエンジンを搭載するが、ひとつの熟成された手応えがケンメリGT-Rにあった。ただ、もしレースへの参戦があれば、もっと先鋭的なエンジン特性になっていたかもしれない。
たとえレースに出場していなくても、それまでの馬力競争から排出ガス規制への対応に追われる日々となった自動車産業の歴史のなかで、ケンメリGT-Rは、時代の転換を実感させる貴重な存在でもあったといえるのではないか。ホンダ・シビックでのCVCCとは別に、高性能車の行く末を案じた時代を思い出す一台といえるだろう。