クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • CLASSIC
  • 三菱の本気! 「ギャランクーペFTO」とは? 安全対策のためにオーバーフェンダー仕様が廃止になった過去も
CLASSIC
share:

三菱の本気! 「ギャランクーペFTO」とは? 安全対策のためにオーバーフェンダー仕様が廃止になった過去も

投稿日:

TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 三菱自動車/原田 了

ホットモデルのGSRがオーバーフェンダー付きで登場

 プッシュロッドの“ネプチューン”エンジンでスタートしたギャラン・クーペFTOでしたが、デビューから1年ほどで初めてのマイナーチェンジを受けています。変更点の第1はエンジンの変更で、1600ccモデルが追加されたこと、そして待望の“GSR”の登場でした。

 エンジンはプッシュロッドの“ネプチューン”から、三菱として初のOHCエンジンであり、コルト・ギャランでそのパフォーマンスに高い評価が集まっていた“サターン”へのコンバートでした。もう少し詳しく紹介していきましょう。

 新たなエンジン・フォーメーションは1.4L版と1.6L版の2種3仕様で、前者は初代のコルト・ギャランにも搭載されていた1439cc(ボア×ストローク=73.0mmφ×86.0mm。最高出力は92ps)の4G33型。後者はギャランGTOにも搭載されていた1597cc(ボア×ストローク=76.9mmφ×86.0mm)の4G32型で、最高出力はSU式のシングルキャブ版が100ps、SU式のツインキャブ版が110psでした。

 この4G32型の110ps版を搭載したモデルがGSとGSRでしたが、ほかのモデルでも最強モデルに与えられているGSRを名乗るトップグレードには、オーバーフェンダーを装着しています。ちなみにハイパフォーマンスカーの“証”とされていたオーバーフェンダーは、1970年10月に登場した日産のスカイライン・ハードトップGT-Rが先駆けとなりました。

 その後1971年11月には日産が、それまでダットサン240Zの名で輸出専用だったフェアレディ240Zを国内販売した際に設定した最上級モデル、240Z-Gにもオーバーフェンダーが装着されています。さらに1972年3月にはトヨタがカローラ/スプリンターにテンロク・ツインカムの2T-Gエンジンを搭載したカローラ・レビン/スプリンター・トレノをリリースしていますが、こちらにもオーバーフェンダーが装着されていて、広く認知されることになりました。

 さらに1973年1月にはギャランGTOに、マイナーチェンジに合わせて登場したGTO 2000 GS-Rがビス止めのFRP製オーバーフェンダーを装着。なお、グレード名のGS-RはGrand Sports and Rallyの略でハイフンのないGSRとは関係ありませんでした。そうした流れを受けて1973年3月にはギャラン・クーペFTOにもオーバーフェンダーを装着したGSRが追加設定されたのでした。

 ギャラン・クーペFTO GSRの特徴は、もちろんオーバーフェンダーだけではありません。フロントがマクファーソン・ストラット式、リヤがリーフ・リジッド式と当時としてはコンサバなレイアウトだった前後サスペンションもヘビーデューティに強化され、リミテッド・スリップ・デフ(LSD)も組み込まれていましたし、当時としては超扁平・高速型ラジアルという位置づけだった175/70HR13 タイヤを装着していました。

 そのサイズにはあらためて時代経過を感じさせられずにはいられませんが、この辺りにも三菱の“本気”が感じられます。もっともオーバーフェンダー自体は「若者の暴走を助長する」との理由から4年ほどで保安基準が改正されてしまい、“安全対策”を名目にオーバーフェンダー付きGSRは、1974年の8月にはモデル(グレード)廃止となってしまいました。

 それでも三菱は、2カ月と短いインターバルでオーバーフェンダーを取り去ったGSRを復活させています。こうした三菱の“本気”に応えたのがラリードライバーたち。1973年シーズンまではエンジンのチューニングが許されていて、三菱ワークスもコルト・ギャランに続いてランサーを主戦マシンとしていたためにエンジンのチューニングが大きく制限された1974年シーズンからは、ギャラン・クーペFTOの軽量さに注目するドライバーも増えてきました。

 もっとも、その一方で短いホイールベースによるシビアな(シビア過ぎる)ハンドリングは功罪半ばするところで、全日本クラスでは三菱系有力ドライバーのひとりである菅野茂選手の活躍が目立った程度でした。その一方で、学生時代に某モータースポーツ専門紙の地方レポーターとして幾戦も取材に訪れた西日本エリアの地方戦クラスでは、60台のエントリーのうち、大抵1台か2台、馬鹿っ速いFTOがいました。クイックな動きは明らかにほかとは一線を画していたことが記憶に残っています。

12
すべて表示
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
著者一覧 >

 

 

 

 

 

 

 

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

 

 

 

 

 

 

人気記事ランキング

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

AMW SPECIAL CONTENTS