三菱の悲願だったサザンクロス制覇
それまでのコルト1000やコルト1500が質実剛健一本やりだった三菱自動車のイメージを一新したモデルが、1969年に発売された三菱コルト ギャランでした。ジウジアーロが関わったウェッジシェイプのボディに、同社初となるSOHCなどの新技術を惜しげもなく盛り込んだ三菱中興の祖、コルト ギャランを振り返ります。
再統合された三菱重工業とともにデビューしたコルト ギャラン
三菱自動車工業は、母体である三菱重工業の自動車部門が1970年に分社独立して誕生した自動車メーカーです。三菱重工業は戦後の財閥解体によって1950年(昭和25年)に東日本重工業(のちの三菱日本重工業)、中日本重工業(後の新三菱重工業)、西日本重工業(後の三菱造船)の3社に分割されていました。
その3社の中で自動車を手掛けていたのは東日本重工業と中日本重工業で、東日本重工業はおもに大型のトラックやバスを手掛け、小型乗用車はおもに中日本重工業が担当していました。しかし中日本重工業の中でも水島製作所(岡山県倉敷市)はオート3輪を経て三菱360で4輪市場に参入することになりましたが、名古屋製作所はスクーターのシルバーピジョンを経て三菱500で4輪メーカーとしての名乗りを上げています。
そして、水島製作所では2ストローク3気筒エンジンを搭載した三菱コルト800を開発し、一方の名古屋製作所では4ストローク直4OHVエンジンを搭載した三菱コルト1000を開発します。
その後、水島で開発したコルト800に、名古屋で開発したコルト1000用のエンジンを搭載した三菱コルト1000Fが登場するのですが、各製作所が独自に開発を行うことの不合理さを反省した三菱重工業系3社は、再統合に向けてこうした無駄を省いた新たな開発体制を築くことになりました。そうした新体制のもと、開発された新型車が1969年に登場したコルト ギャランでした。ちなみに後継の2代目はコルトの名が消え、ギャランとして引き続き歴史を刻むことになります。
コルト1500/1200の後継と位置付けられたコルト ギャランは、3ボックスの4ドアセダンというデザインテーマは共通していましたが、のちにデボネアを手掛けることになるGM出身のハンス・S・ブレッツナーが関わったスタイリングは、当時流行していたフラットデッキ・デザインが取り入れられていて、アメリカンなルックスは実際のサイズ以上に大きく見せる効果がありました。
一方、コルト ギャランはイタルデザインを設立したジョルジェット・ジウジアーロが提案した原案を三菱の社内デザイナーが仕上げたスタイリングで、ウェッジシェイプをその基調としています。全長×全幅×全高のボディサイズで見るならコルト1500の3975mm×1490mm×1425mmに対してコルト ギャランは4080mm×1560mm×1385mmと全長で105mm、全幅で70mmもサイズアップしていましたが、デザインの妙というか、1500の方が大きいものと勘違いを生じさせていました。
車両重量に関しては1500のデラクッスが920kgだったのに対してギャランのA II(1500)カスタムLが845kgと大きくダイエットしています。大きくなっても小さく見せ、実際に軽量化が追求されていたのです。そんなコルト ギャランに搭載されたエンジンは2種。
ともに三菱初のOHC機構を組み込み、クロスフローで半球型燃焼室を持ち、クランクを5ベアリングで支えるなど、当時としては先進の技術が盛り込まれた通称“サターン・エンジン”の1289cc 4G30(ボア×ストローク=73.0mmφ×77.0mmで最高出力は87ps)と1499cc 4G31(ボア×ストローク=74.5mmφ×86.0mmで最高出力は95ps)で、当初はシングルキャブ仕様のみでした。のちに追加設定されたA II(1500)のトップモデルとなるA II GSには4G31の圧縮比を9.0:1から10.0:1に引き上げてSUツインキャブを装着、最高出力を105psにパワーアップしたユニットが搭載されています。
シャシーも十分にブラッシュアップされており、前後のサスペンションはコイルで吊るマクファーソン・ストラット式とリーフ・リジッド式。フロントのマクファーソン・ストラットは三菱としては初の採用でしたが、この時代としては平凡なメカニズムとなっていました。
しかしその味付けは秀逸で、安定した操縦性は各方面から高評価。デビュー半年後の1970年5月には三菱初となる2ドア・ハードトップが追加設定されています。
高いパフォーマンスを活かして海外ラリーでも大活躍しランサーにバトンタッチ
コルト ギャランは、新開発の“サターン・エンジン”を、軽量化を追求したボディに搭載していたことで、コルト1500に比べて大きくパフォーマンスが引き上げられていました。そこで三菱では、このコルト ギャランをモータースポーツに投入することにしたのです。
参戦したのは1960年代半ばごろよりコルト1000Fや1100Fで参戦してきた海外ラリーでした。1967年にオーストラリアで開催されたサザンクロス・インターナショナルラリーに参戦したコルト1000Fは、コリン・ボンド組が総合4位/クラス優勝を飾るとともに、ダグ・スチュワートもクラス3位入賞を果たすなど、デビュー戦とは思えない好成績を残しています。
その後も新たな主戦マシンを次々と投入し、同ラリーに挑戦を続けることになり、1968年にはコルト1100Fでコリン・ボンド組が総合3位、1969年にはコルト1500SSで、やはりコリン・ボンド組が総合3位。1970年はコルト1100SSでバリー・ロイド組が総合7位にとどまりましたが、翌1971年には期待を背負ってコルト ギャランAII GSが実戦デビューを果たすことになりました。
これがサザンクロス初出場となるギャランでしたが、期待に応える見事なパフォーマンスを発揮、終盤まで1-2をキープし続けていました。しかし大詰めに来て、コースに隠れた岩にサスペンションを強打するなどアクシデントに見舞われてしまい、結果的にはバリー・ファーガソン組が総合3位、エドガー・ハーマン組が総合4位に留まり、ホールデン・トラーナに1-2フィニッシュを許してしまいました。
それでも排気量が2倍(ホールデン・トラーナGTR XU-1は3L直6を搭載)もあるトラーナを相手に見事なパフォーマンスを見せつけたことで、ファンの間では翌年からの活躍に一層期待が高まっていったのです。
三菱は、そんなファンの期待に応えるべく、1972年のサザンクロスには排気量を1.5Lから1.6Lに拡大した2台のギャラン16L GSに加えて、2台のギャランGTO 17Xを新規開発して投入することになりました。ともに“サターン・エンジン”を搭載していましたが、ギャラン16L GSが搭載していた1598ccの4G32ユニットは140psまで、ギャランGTO 17Xが搭載していた1750ccキットを組み込んだ4G35C-IIIユニットは165psまでチューニングされています。
その一方でシャシーに関しては、これが2度目の参戦となるギャラン16L GSの方が熟成が進んでいることもあって、トータルでの戦闘力はギャラン16L GSに分があると判断されました。それを裏付けるように、この年三菱がエースとして招聘したトップドライバー、のちにラリーアート・ヨーロッパの代表として活躍することになるアンドリュー・コーワンは、ギャラン16L GSをドライブすることになります。
この年の最大のライバルは、三菱と同様に日本から参戦してきた日産のダットサン240Z。このクルマ自体はまだまだ開発途上でもありましたが、熟成を重ねてきたブルーバードP510とはパーツの連携もあり、実際に2.4LのL24ユニットは、すでに200psオーバーを謳っていました。
しかし、トータルの性能ではギャラン16L GSの方が少し勝っていたようです。実際、競技が始まってみるとコーワンのギャラン16L GSと日産ワークス、ラウノ・アルトーネンのダットサン240Zが激しくトップを争うことになっていき、最後は互いにトラブルを抱えながらの“手負いのバトル”となっていきます。
そしてクラッチやブレーキに多くのトラブルを抱えながらもコーワンは最後まで力走。タイヤトラブルに泣いたアルトーネンに24分もの大差をつけてトップチェッカー。三菱の悲願だったサザンクロス制覇をもたらしたのです。
翌1973年から1976年まではギャラン16L GSの後継マシンとなるランサー1600GSRがサザンクロスに挑戦し、アンドリュー・コーワンのドライブで4連勝(1972年のギャラン16L GSの初優勝を合わせて5連勝)を飾っているために、ギャラン16L GSの印象が薄くなっていることは否定できませんが、ランサー1600GSRの活躍も、ギャラン16L GSで培ったノウハウが大きくものを言っているのは事実。その偉大なる存在感は圧倒的でした。今見ても新鮮なスタイリングも含めて記憶に残る1台です。