1921年パリ・オートショーでデビューし大反響
セダンやオープンなど何種類かのボディ・バリエーションが製造されたレイヤ・エリカだが、いずれもシート・レイアウトは前後タンデムのスリムな2座席。空力を意識した流線型のボディは合板やアルミが用いられ、車重は250〜300kg程度と非常に軽量に仕上げられた。このあたりは航空機エンジニア出身のマルセル・レイヤの面目躍如といったところだ。操舵は現代のフォークリフトのように後輪で行う。エンジンにはABCなど既存のモーターサイクル用の1.2L空冷2気筒エンジンが流用された。
「航空機技術を用いて設計されたスタイリッシュな新しい乗り物。スピード、安全性、エレガンス、その全てをなめらかな空力に優れたボディ・デザインで体現」という謳い文句で、マルセル・レイヤはこの奇抜なクルマを1921年のパリ・オートショーに出品すると、大きな話題となって600件以上の問い合わせが殺到したといわれている。しかしパリ市内のケ・ド・グルネルに設立されたマルセル・レイヤの工場のキャパシティは非常に小さく、1台ずつ手作りによる生産は遅々として進まなかった。
結局、市販台数は23台のみにとどまる
各ボディ形式や試作を含め、レイヤ・エリカは結局30台が生産されたにとどまった。実際に市販されたのはその内わずか23台だったといわれる。それはもちろん工場の生産能力の問題もあったろうが、やはり一番のネックは「翼を持たない飛行機をパリの街中で走らせる」ということの無謀さにあった。
駆動系を省いたシンプルなメカはトラブルの確率も少なく、1L級のエンジンで100km/hを超え、燃費もリッター20km以上と軽量・高効率を謳ったが、やはり交通量の多いパリ市内で、簡単なガードで覆われているとはいえ巨大なプロペラを回転させ車体後方に物凄い風を巻き起こすプロペラ推進のクルマが、通常の自動車に取って代わるとは思えない。1921年のパリ・オートショーの会場で「未来の自動車」の出現に驚き、注目した多くのパリ市民も、時間が経つにつれ冷静にそう考えたはずだ。
最高速171km/h! 自動車としての性能には不足なかった
後年の旧ソ連では軍用・民需問わず、プロペラ推進のソリが多数開発され実用化されるなど、地域や使用条件などによっては例外があったものの、プロペラ推進のクルマが自動車の主流になることはなかった。
結局マルセル・レイヤの自動車工場は1919年から1925年までのわずか7年でその歴史の幕を閉じた。しかし、自動車メーカーとしては終焉したがレイヤ・エリカはその後も技術的な挑戦を行い、1927年にはパリ近郊モンレリの南西に位置するモンレリ・サーキットで時速106マイル(171km/h)の最高速度記録を達成している。
またマルセル・レイヤ本人は、自動車製造から撤退した後も長くエンジニアとして活躍。1986年に101歳という長寿を全うした。