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1000馬力の日産R33「スカイラインGT-R」誕生秘話。「トップシークレット」流チューニングのヒミツとは

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TEXT: 増田髙志  PHOTO: GT-Rマガジン編集部

チューナーの心に残る厳選のGT-Rを語る【TOP SECRET 永田和彦代表】

 数え切れないGT-Rを手掛けてきたチューナーが今でも心に残る1台を語る。『TOP SECRET』は日本のみならず海外ユーザーからも支持されるプロショップだ。永田和彦代表の思い出に残る1台は日産「R33スカイラインGT-R」。無事に家路につけることが大前提。どんなに速くても、壊れてしまえば意味がない。強靭なチューニングカーをユーザーに提供するために自らがダメージを受け入れて、対策を講じる。そんな過酷な条件を課された、頼りになる1台なのである。

(初出:GT-R Magazine 143号)

高校生でエンジン載せ換えが発想の原点

 北の大地、北海道が永田和彦代表の故郷だ。実家は牧場を営んでおり、小さいころから積極的に家の手伝いに勤しんでいた。それが証拠に小学生時代はバイクを使い、中学生になったら4tトラックを巧みに操って牧場内を駆け回っていた。とてもじゃないが歩いていたら広大な牧場では仕事にならないのだ。動くものが大好きだから手伝いはちっとも苦にならなかったという。むしろ学校の勉強よりも楽しかったほどだ。

 高校に入ると、すぐに解体業者から三菱ギャランGTOを2台まとめて買ってきた。1台3万円で、合わせて6万円。1台だけではまともに走らないので、お互いの良いところを使って走るようにしようという作戦だ。当然、専門知識はなく、現物合わせの出たとこ勝負。

 永田代表をその気にさせた原動力は、壊れた目覚まし時計や掃除機などをいくつもバラし、不具合を直して元通りに組み立てたという経験にほかならない。分解して、その仕組みを理解すれば、故障の原因は自ずとわかる。だから修理が行える。クルマだって同じこと、なんとかなる、という強気の理論だ。

 しかし、クルマは目覚まし時計のようにはいかなかった。掃除機とは比べ物にならないほど複雑なのだ。作業は難航した。それを見かねて手伝ってくれたのが、永田家の多くのクルマを担当していた自動車ディーラーの所長だ。頻繁に牧場に出入りしているので、永田代表が片隅で作業をしていることは知っており、壁にぶつかって途方に暮れていたこともわかっていた。

 しばらくは様子を伺っていたが、あまりにも深刻そうな顔をした日が続いていたので力を貸したのだ。壁はあっけなくクリア。それがきっかけで、わからないところは所長に教えてもらうようになった。牧場にはフォークリフトもあったので、それを使ってエンジンの載せ換えも行ったというから頼もしい。ほどなくしてGTOは走れるようになった。

 VR38DETTをR32へスワップするなど、高揚感溢れるチューニングカーを生み出す永田代表のチャレンジ精神は、この貴重な体験が源になっているはずだ。

整備を学びチューニングを学んだ下積み時代

 高校1年では自動車の運転免許は取得できないので、牧場内の私有地だけでGTOを走らせていれば「いい話」で終わっていたのに、あろうことか高校に乗っていってしまったのだ。当然、先生に見つかって、問答無用に退学処分。

 それを聞いた所長が「自分が手伝ったせいだからウチに来い」とディーラーのメカニックとして雇ってくれた。そこでは16歳から22歳まで整備の基本を学んだ。その後、大型免許を取って長距離トラックの運転手をしたが、本格的にクルマのことを覚えたいという思いに駆られ、北海道を後にした。

 24歳で『トラスト』に入社。1年目がマフラーの梱包と配送。2年目はマフラーとエキマニの製造。3年目には車検対応マフラーのさまざまな車種での認可取得を命じられた。

 本来、永田代表はチューニングの開発に携わりたかった。車検対応マフラーよりも、もっと過激なアイテムを生み出したかったのだ。そんな悶々としているさなか、社員のチューニングが全面禁止になった。それまでは仕事の時間外にチューニングができた。それがせめてもの救いだった。それもできないとなれば、トラストにいる意味がないと独立を決意。

 満を持して会社に伝えると、辞めないように説得された。だが、永田代表もガレージまで見つけていたので後に引けず「今すぐにでも独立したい」と主張する。押し問答の末、「就業時間外のプライベートでのチューニングは許可する。その代わり仕事の引き継ぎを行うまでは在籍すること」という妥協案を言い渡され、それに従うことにした。妥協案にはさらに「他の社員には黙っていること」という条件も付けられた。

 こうして永田代表は27歳のときに、トラストの上層部二人と密約を交わすことになる。トップ以外はシークレットのチューニングショップ。『トップシークレット』の名前の由来はここにある。引き継ぎには約10カ月かかったがきっちりと終わらせ、ついにトップシークレットは全力で活動を開始する。

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