サザンクロスラリーで初代バイオレットはトップ3を独占
モデルチェンジでクルマが大型化し、元の大きさで新しいブランドのクルマが誕生する。これはよくあるケースですが、日産ブルーバードがモデルチェンジで上級モデルのブルーバードUに移行。新たにバイオレットが誕生したのはその好例です。すでに両車種とも消えてしまいましたが、今回はバイオレットを振り返ります。
大きくなりすぎたブルーバードUに代わりブルーバードの正統な後継車に
かつて日産の屋台骨を支えたビッグブランドであるブルーバードは、ダットサン110系、同210系の後継モデルとして1959年に誕生しました。初代モデルが310系となっているのは、こうした理由からで、1963年にフルモデルチェンジを受けて登場した2代目が410系、1967年に登場した3代目は510系を名乗っています。
ダットサン110系からのモデルチェンジを、ボディサイズ(全長×全幅)とエンジン排気量で振り返ってみると、3860mm×1466mmで860ccの110系からスタートし、210系はボディが同サイズながらエンジン排気量が1Lに。310系の初代ブルーバードが3915mm×1496mmでエンジンは1L/1.2L、410系の2代目ブルーバードが3995mm×1490mmでエンジンが1L~1.6L。
そして1967年に登場した510系の3代目ブルーバードは4090mm×1560mmで、エンジンは1.3L~1.8Lでした。モデルチェンジのたびにボディもエンジンも拡大されていますが、ボディの拡大は緩やかだし、エンジンも排気量は拡大していましたが、すべて直4に留められていました。
ところが、1971年8月に登場した4代目、ブルーバードUはエンジンこそ1.6L/1.8Lでしたがボディは4215mm×1600mmに拡大。しかも追加設定で1973年には2Lの直6を搭載した2000GTシリーズが登場していますが、そちらのボディは4420mm×1615mmと一挙に肥大化してしまいました。
同じ日産のスカイライン2000GTが先鞭を切り、トヨタが2代目のコロナ・マークIIで対応。それを後追いする格好でしたが、ブルーバードにも2L直6エンジンを搭載することになったのです。1968年には、チョコレートのCMをきっかけにして『大きいことはいいことだ』とのフレーズが流行するなど、重厚長大を賛美する社会風潮もありましたが、ブルーバードUのサイズアップは、まさに、これまでとは違ったアッパー・ミディアムなモデルへのスタートとなりました。
そして、大きくなりすぎたブルーバードUに代わって、それまでのブルーバード(3代目の510型まで)の“正統”な後継モデルとして1973年に登場したのが710型系の型式名を持ったバイオレットでした。
710型系バイオレットはボディサイズも、エンジン排気量も、それまでのブルーバードの後継に相応しいものでした。具体的に説明していきましょう。ボディサイズは4120mm×1580mm×1375mmと510型系の3代目ブルーバードをわずかにサイズアップ。
搭載されるエンジンもL14(排気量は1428ccで、ボア×ストローク=83.0mmφ×66.0mm。最高出力は85ps)とL16(同じく1595ccでボア×ストローク=83.0mmφ×73.7mm。最高出力は電子制御のインジェクション仕様で115ps、ツインキャブ仕様で105ps、シングルキャブ仕様で92ps)で、タクシー仕様にはL16のLPG仕様であるL16Pを用意。
ボディは4ドア/2ドアのセダンに2ドアのハードトップがラインアップされていました。この時期の日産では1971年のブルーバードU、1972年の4代目スカイライン(C110型)、1973年の3代目サニー(B210型)、75年の2代目シルビア(S10型)など、リヤピラーを幅広くして抑揚をつけたサイドビューが特徴的なスタイリングのモデルが続出していましたが、初代バイオレットもその例に漏れてはいませんでした。
とくに4ドア/2ドアのセダン系ではリヤウインドウとトランクリッドが直線的につながるファストバック・デザインとなり、後方視界が限られてしまう、との声も高かったようです。それもあって1976年のマイナーチェンジでは、セダンのうち4ドア版がリヤウインドウを少し起こしてトランクリッドとノッチをつけ、ファストバックから、いわゆるノッチバックにスタイリングを変更。さらに、2ドア版はモデル自体が廃止されています。
またシャシーに関して見ていくと、フロントサスペンションが510型系の3代目ブルーバードからマクファーソン・ストラット式を踏襲。またリヤのサスペンションもトップグレードのSSSのみは510型系から踏襲したコイルで吊ったセミトレーリング式の独立懸架、それ以外はリーフ・リジッドとなっていました。
ラリーやサーキットレースでも活躍し栄光をもたらした
510型系3代目ブルーバードの正統な後継モデルに位置づけられる初代バイオレットですが、モータースポーツでも活躍して、その立ち位置を明確にしていました。まずは日産の代名詞ともなっていたラリーでの活躍から。510型系からブルーバードの名を引き継いだ610型系は、ボディのサイズアップによるポテンシャルの低下が心配され、結果的に日産の主力マシンはダットサン240Z(国内名はフェアレディ240Z)とダットサン160J(国内名はバイオレット1600SSS)の2本立てとなっていきました。
当時日産は、モンテカルロ・ラリーなどヨーロッパのスピード重視のラリーにも参戦していましたが、メインターゲットとしていたイベントはオーストラリアで開催されるサザンクロス・インターナショナルラリーと、アフリカ・ケニアを主会場とするサファリ・ラリーでした。
1970年代序盤、排気ガス問題が顕在化するのに比例するように、国内メーカーは自らのモータースポーツ活動を制限するようになりました。ただし、海外ラリーは状況が異なり、海外のディーラーチームなどを支援する格好で進められていたのです。
そうした状況を打ち破ったのが1977年のサザンクロスラリーでした。日産は710型バイオレットをベースに、1.8LOHC直4エンジンのL18型に、16バルブのツインカムヘッドを組み込んだLZ18型(排気量は1991cc。最高出力は200ps以上)を搭載したグループ4仕様のラリーカーを、オーストラリア日産チームから投入したのです。ライバルはワークスカーを持ち込んだフォード・エスコートRS1800とサーブ99EMS。事実上3強ワークスのバトルが繰り広げられることになりました。
この激しいバトルで、序盤こそフォード・コスワース製の純レーシングエンジン、コスワースBDAを搭載したエスコートRS1800がバトルを優位に進めていましたが、大詰めに来てトラブルに見舞われたエスコートが後退。ワークス710をドライブするラウノ・アルトーネン組が日産にサザンクロス初制覇をもたらすとともに、やはりワークス710をドライブしたハリー・シェルストロム組が2位で続き、さらにプライベーターのボブ・ワトソン組が総合3位に入賞し、ダットサン710J=710型の初代バイオレットはトップ3を独占していました。
レースでも活躍したバイオレット
710型の初代バイオレットの、サーキットレースでの活躍も見逃せません。
こちらは1974年に、東南アジア地域でのプロモーションと、ターボチャージャーの先行開発を兼ねて710バイオレットに、L18改と呼ばれるエンジンを搭載したプロトタイプを製作しています。L18改は、ラリー用のスポーツオプション、ツインカム16バルブ・ヘッドを組み込んだLZ18型に準ずるものですが、それにターボチャージャーを組み込んで搭載していました。
パワーは十分ですが、タービンによる過給の制御はまだまだ開発途上だったため、いわゆる“ドッカン・ターボ”で、その操縦にはプロドライバーも苦労していたようです。このバイオレット・ターボのデビュー戦は1974年、マレーシアのセランゴール・サーキットで開催されたマレーシアGPのサポートレースで、高橋国光選手のドライブで見事初優勝を飾っています。
その後、開発が続けられ1979年には国内デビューを果たすことになりました。その舞台は富士グラン・チャンピオン(GC)レースのサポートイベント、富士スーパー・シルエット(SS)レース。柳田春人選手のドライブで予選3番手を得たバイオレット・ターボは、決勝レースでは本来のパフォーマンスを発揮できないまま2周遅れの7位でチェッカーを受けています。
続く第2戦からは、2代目バイオレット(A10型)をベースにノバ・エンジニアリングで製作したボディに替えて参戦継続し、最終戦では見事初優勝を飾っています。そして何よりも、この新旧2台のバイオレットによるチャレンジによって、1980年代前半の、スカイライン/シルビア/ブルーバードの“日産ターボ3兄弟”の活躍が生まれたのです。そういえばラリーにおいても1977年に710型がサザンクロスでトップ3を独占したのを受け、後継モデルのA10型バイオレットがデビュー。1978年のサファリで3位入賞し、1979年からは1982年まで破竹の4連勝を飾っています。
ラリーにおいてもレースにおいても710は着実に進化熟成を続け、長い歴史の中で欠かすことのできない開発を成し遂げたのち現役を辞し、バトンを受けた後継者が栄光を引継ぐ。そんな運命の1台だったのです。