東西コンストラクターの直接対決で盛り上がったFL550のラストエンペラー
さて、1980年の鈴鹿FL550チャンピオンシリーズで、開幕戦にデビューしたファルコン80Aですが、先代モデルのファルコン77Aや、その最強のライバルであるハヤシ712に比べて随分コンパクトになった印象があります。
しかし80Aのホイールベースと前後トレッドは、それぞれ2100mm、1200mm/1220mmで77Aの2060mm、1200mm/1220mmとはホイールベースが40mm伸びただけでトレッドは共通となっています。ちなみに、最強ライバルだったハヤシ712は2050mm、1200mm/1200mmで、これは77Aと似たようなディメンションとなっていました。
そうです、ディメンション的には似たような数値だったのですが、見た印象が随分コンパクトになっていたのは、その“低さ”が大きな要因となっていたのです。具体的な数値は手元の資料からは確認できていませんが、77Aに比べて80Aのモノコックは全幅が広く、その一方で全高は低くコンパクトになっていました。
このスリークなモノコックに組み込まれるサスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーン式で、フロントが77Aと同様にロッキングアーム式のインボード。リヤは77Aではアウトボード式だったものがロッキングアーム式のインボードにコンバートされていました。
もちろんフロントサスペンションは、同じインボード式でも両者にはまったく共通性はなく、77Aはアッパーアームが鋼板を溶接したタイプのワイドベースのIアームだったのに対して80Aでは後方をパイプ製、前方部分の鋼板を溶接したAアームとし、その前方部分がロッキングアームとして、インボードマウントされたコイル/ダンパーに作用していました。
実際以上にコンパクトに映るカウルワークですが、スポーツカーノーズも独特な形状をしていました。80Aは77Aと同様にフロントにラジエターをマウントしていましたが、77Aではツインラジエターだったのに対し、80Aではシングルラジエターにコンバートしていました。
そしてそれをカバーするスポーツカーノーズも、センター部分とフロントタイヤをカバーする両サイド部分はある程度高さが確保されていましたが、その間の部分については低く削り取られた格好となっていて、やはり低く設定されたサイドポンツーンにスムースに空気が流れ、リヤウイングに整流された空気が導かれていました。
この辺りが空気抵抗が小さく、結果的にトップスピードが高い、77Aのアドバンテージを引き継いでいたように思われます。またジュラルミン製のホイールやブレーキキャリパーなど、ホイールメーカーだったRSワタナベならではの拘りもあり、結果的にファルコン80Aは、シビアだけれどもドライビングしやすいマシンに仕上がっていたようです。
先にふれたように、デビューシーズンとなった1980年にはワークスエントリーの小幡選手が開幕戦でデビューレースウィンを飾り、シーズン終盤で2連勝してハヤシから覇権を奪還。翌1981年には小幡選手に代わってファルコンのエースとなった篠田康雄選手が2年連続でチャンピオンを獲得しています。
ちなみにこのシーズン、篠田選手は筑波でもチャンピオンに輝き2冠を達成していました。翌1982年には鈴鹿のFL550チャンピオンシリーズは、鈴鹿のタイトルに換えてJAFの地方ドライバー選手権が懸けられており、ハヤシ712をドライブする井倉淳一選手がチャンピオンに輝いていますが、1979年から始まったF3(1981年から全日本選手権)や1980年から始まったFJ1600(1980年には全日本選手権、1981年からは地方選手権)によってコンストラクターの目はそちらに移動。
その結果ハヤシレーシングもRSワタナベも、F3やFJ1600マシンを生産するようになりました。ハヤシvs RSワタナベの両雄激突で沸いたFL500/550 のバトルも、ファルコン80Aというラストエンペラーが誕生し、そのバトルに終焉が訪れています。