空力を意識したファルコン
かつて多くのコンストラクターが群雄割拠していたFL500は、やがて大阪から鈴鹿に本拠を移したハヤシレーシングと横浜に本拠を構えるRSワタナベ(ファルコン)の2トップが他を圧倒する展開となってきました。そんなFL500マシンを紹介するシリーズの第4回はハヤシから覇権をふたたび取り戻した、ファルコン80Aです。
群雄割拠の中から王座を奪ったファルコンと、それを奪い返したハヤシ
ワンオフモデルまで含めると十指に余る“コンストラクター”が群雄割拠していた1970年代中盤から後半にかけて、FL500クラスにおいてみるみる競争力を挙げてきたのが、横浜に本拠を構えるRSワタナベ(ファルコン)。その名を知らしめるヒット作となったのが、1977年シーズンに向けてリリースされたファルコン77Aでした。
前作の72A/Bは鋼管スペースフレーム(72Bはアルミパネルをリベット止めしたセミ・モノコックフレーム)でしたが、77Aではアルミパネルのツインチューブで構成したモノコックフレームを採用していました。ボディワーク(カウルワーク)では低く幅広くなっており、前面投影面積は拡大されていながら空気抵抗係数に優れていたため、結果的にストレートスピードが速いことが最大の武器となりました。
デビューシーズンとなった1977年から、鈴鹿のFL500チャンピオンシリーズでは飯田 武選手が速さを見せていましたが、優勝には一歩およばないままに終わっています。ただし富士のレースで飯田選手が優勝を飾っており、ストレートスピードの速さでは注目を集めていました。
そして2シーズン目となった1978年の鈴鹿FL500チャンピオンシリーズでは、開幕戦の鈴鹿ビッグ2&4で飯田選手が鈴鹿における77A初優勝を飾ると、7月のルビートロフィーで2勝を飾っています。じつはシーズン終盤にはハヤシレーシングがアルミハニカム・モノコックの712をリリースし、グレート20、JAF鈴鹿グランプリと中本選手が2連勝を飾ることになるのですが、ファルコン77Aの飯田選手が逃げ切ってチャンピオンに。このシーズン中盤までの“ファルコン・ショック”に対して、シーズン終盤のハヤシ712の速さについては“ハヤシ・マジック”と称され、激しい開発競争は今も語り継がれています。
翌1979年にはハヤシのエースとなった中野常治選手(F1GPやCARTで活躍した中野信治選手の父)が開幕戦と終盤2連戦に勝利。3勝を挙げてハヤシレーシングがファルコンのRSワタナベから覇権を奪い返すことになりました。このハヤシ712の速さに対抗してRSワタナベが開発した、1980年シーズン用のマシンが80Aです。
このシーズンから車両規則が一部変更になり、エンジン排気量の上限が550ccにまで引き上げられ、カテゴリー名もFL550となりましたが、やはり舞台は鈴鹿のフルコースを舞台としたFL550チャンピオンレース・シリーズです。
開幕戦は、例年の鈴鹿ビッグ2&4(3月初めに開催)ではなく、4月初めに開催される鈴鹿500km。1 カ月の猶予ができたために、ニューマシンをデビューさせるには十分な開発が進められたようです。ちなみに、エンジンに関する車両規定が変更されたのは、1976年に軽自動車のエンジン排気量上限が、それまでの360ccから550ccに引き上げられていたことが関係しています。
FL500で使用されてきたエンジンは、わずかな例外を除くとスズキ・フロンテ用で水冷の2ストローク3気筒エンジン、LC10Wでした。それを420ccまで排気量を拡大してチューニングしたエンジンを使用していたのですが、550ccに引き上げられて以降、スズキではLC10Wから、同じ539cc水冷2ストローク3気筒のT5A(ボア×ストローク=61.0mmφ×61.5mm)に移行。その理由はLC10Wのパーツが手に入り難くなってきたからでした。
そしてLC10W(420cc)との排気量差を考えてT5Aのチューニングには(LC10Wに比べて)少し規制が厳しくなっていました。ただし排気量が拡大されたことでトルク特性的にはT5Aの方が有利と判断されていましたが、RSワタナベ(ファルコン)のエンジンを担当していたSRS久保や、自らエンジンチューニングも担当していたハヤシレーシングなど、エンジンチューナーではT5Aエンジンの開発(チューニング)が間に合わず、最終戦のJAF鈴鹿グランプリでファルコンとハヤシの、それぞれワークスマシン2台ずつを含む計8台がT5Aエンジンを搭載しでデビュー。
ファルコンの小幡 栄選手がポールtoフィニッシュを飾り、ともにハヤシの小河 等選手と田中 毅選手が2-3位で続き表彰台を独占しています。
東西コンストラクターの直接対決で盛り上がったFL550のラストエンペラー
さて、1980年の鈴鹿FL550チャンピオンシリーズで、開幕戦にデビューしたファルコン80Aですが、先代モデルのファルコン77Aや、その最強のライバルであるハヤシ712に比べて随分コンパクトになった印象があります。
しかし80Aのホイールベースと前後トレッドは、それぞれ2100mm、1200mm/1220mmで77Aの2060mm、1200mm/1220mmとはホイールベースが40mm伸びただけでトレッドは共通となっています。ちなみに、最強ライバルだったハヤシ712は2050mm、1200mm/1200mmで、これは77Aと似たようなディメンションとなっていました。
そうです、ディメンション的には似たような数値だったのですが、見た印象が随分コンパクトになっていたのは、その“低さ”が大きな要因となっていたのです。具体的な数値は手元の資料からは確認できていませんが、77Aに比べて80Aのモノコックは全幅が広く、その一方で全高は低くコンパクトになっていました。
このスリークなモノコックに組み込まれるサスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーン式で、フロントが77Aと同様にロッキングアーム式のインボード。リヤは77Aではアウトボード式だったものがロッキングアーム式のインボードにコンバートされていました。
もちろんフロントサスペンションは、同じインボード式でも両者にはまったく共通性はなく、77Aはアッパーアームが鋼板を溶接したタイプのワイドベースのIアームだったのに対して80Aでは後方をパイプ製、前方部分の鋼板を溶接したAアームとし、その前方部分がロッキングアームとして、インボードマウントされたコイル/ダンパーに作用していました。
実際以上にコンパクトに映るカウルワークですが、スポーツカーノーズも独特な形状をしていました。80Aは77Aと同様にフロントにラジエターをマウントしていましたが、77Aではツインラジエターだったのに対し、80Aではシングルラジエターにコンバートしていました。
そしてそれをカバーするスポーツカーノーズも、センター部分とフロントタイヤをカバーする両サイド部分はある程度高さが確保されていましたが、その間の部分については低く削り取られた格好となっていて、やはり低く設定されたサイドポンツーンにスムースに空気が流れ、リヤウイングに整流された空気が導かれていました。
この辺りが空気抵抗が小さく、結果的にトップスピードが高い、77Aのアドバンテージを引き継いでいたように思われます。またジュラルミン製のホイールやブレーキキャリパーなど、ホイールメーカーだったRSワタナベならではの拘りもあり、結果的にファルコン80Aは、シビアだけれどもドライビングしやすいマシンに仕上がっていたようです。
先にふれたように、デビューシーズンとなった1980年にはワークスエントリーの小幡選手が開幕戦でデビューレースウィンを飾り、シーズン終盤で2連勝してハヤシから覇権を奪還。翌1981年には小幡選手に代わってファルコンのエースとなった篠田康雄選手が2年連続でチャンピオンを獲得しています。
ちなみにこのシーズン、篠田選手は筑波でもチャンピオンに輝き2冠を達成していました。翌1982年には鈴鹿のFL550チャンピオンシリーズは、鈴鹿のタイトルに換えてJAFの地方ドライバー選手権が懸けられており、ハヤシ712をドライブする井倉淳一選手がチャンピオンに輝いていますが、1979年から始まったF3(1981年から全日本選手権)や1980年から始まったFJ1600(1980年には全日本選手権、1981年からは地方選手権)によってコンストラクターの目はそちらに移動。
その結果ハヤシレーシングもRSワタナベも、F3やFJ1600マシンを生産するようになりました。ハヤシvs RSワタナベの両雄激突で沸いたFL500/550 のバトルも、ファルコン80Aというラストエンペラーが誕生し、そのバトルに終焉が訪れています。