チューナーの心に残る厳選の1台を語る【オートギャラリー横浜 小泉公二代表】
まさかトランスミッションのスペシャリストになるとはショップを立ち上げたころには夢にも思わなかった。弱点を克服するために取り組んでいったらいつの間にか自然とそうなっていったのが事実だ。そのときの相棒が忘れられない1台である。
(初出:GT-R Magazine 146号)
バイクに興味を持ったから頼りにされる“いま”がある
バイクをイジって乗り回すことが大好きだったという『オートギャラリー横浜』の小泉公二代表。それも大きなバイクではなく、50㏄ベースのモンキーやゴリラといった手軽なレジャーバイクだ。
「小さいエンジンなので自宅の部屋に入れてバラせるので、プラモデルを組み立てる感覚で楽しんでました」と、若かりしころを振り返る。
当時、自動車部品の量販店にはバイクコーナーが併設されていた。そこにはスポーツタイプのミラーやウインカーに混ざって、50㏄エンジンのボアアップキットやビッグキャブといったさまざまなハードパーツも販売されていたのだ。
「最初はマフラーを換えて排気音が変わったぐらいで喜んでいましたが、もっと大きな効果を得たくてエンジン内部にも手を入れ始めたんです」
排気量アップの確かな手応えを実感したのはこのころであり、キャブのセッティングは大きめのジェットから少しずつ番手を落として薄くして、最適なサイズを見つけることを覚えたのもこのころだ。
「実際の成果を確認したくて、草レースに出ていました。成績が上がるとうれしくてまた頑張っちゃうんです。運転よりもバイク作りのほうが性に合ってたかな。学校の勉強は嫌いでしたが、エンジンの勉強は大好きでしたね」
それが証拠に小泉代表は毎日のように、時間も忘れてエンジンやトランスミッションと格闘していた。部屋の中は雨風が凌げるばかりでなく、冷暖房完備で明るくて最高の環境だ。仕組みが理解できないと、わかりやすくするために絵を書いて部品の役割を追求する。そんなことをしているとすぐに夜が明けてしまう。若かったので、徹夜しても少し仮眠をすればすぐに元気は回復するため、夜通しの作業に夢中になった。
「中学を出てから、親父の経営する中華料理店で働き始めたんです。バイクをイジり過ぎて、いくら洗っても爪の間や指紋の隙間に入り込んだ油汚れが落ちない手だったのですが、スープ作りには真剣に取り組んでいました。将来は店を継ぐことになるだろうと思ってましたからね」
元を正すと中華料理店での仕事がバイクのエンジンをイジるきっかけになった。出前で使っていた90ccのカブのほうが、自分のゴリラよりも速かったのでなんとかしたかったというのだ。
バイクいじりと同様に、お店のほうも忙しかった。国道1号線沿いで、昼も夜も客足が絶えない。しかし、小泉代表が仕事をするようになって5〜6年経つと、ファミリーレストランが急激に増えた影響でみるみる衰退していった。今から35年前で、小泉代表が22歳のころだ。
「親父は中華料理店の他に焼肉店も営んでいましたが、どちらも景気が悪くなって、廃業することにしたんです。その後、ビデオのレンタル業を始めましたが、自分はそちらにはいかずに、大好きなチューニングで食っていこうと決めました」
将来を見据えてクルマのチューニングショップ立ち上げを決意
仕事としてやっていくにはバイクよりもクルマのほうが需要が多いと判断して1年だけカーショップで働き、23歳で独立。親から借金してチューニングショップを立ち上げた。それがオートギャラリー横浜である。
スタート当初は馴染みの解体屋の敷地内に、プレハブ小屋を建てて活動していた。工具は揃えていたので、新たにコンプレッサーや溶接機、それに万力を手に入れた。自作した頑丈な作業台、それにウマと寝板は現在でも使っているという。
「7〜8年はそこでやっていましたが、解体屋さんの家主に場所を又借りしていることがバレて引っ越す羽目になったんです」
こうして現在の場所に移転し落ち着いた。今から約27年前で小泉代表は30歳となっていた。
そのころは4AGや5M-GTといったトヨタ系のユーザーが多かった。すでにBNR32はデビューしていたが、チューニングの依頼はほとんどなし。移転後1年ぐらいして、少しずつだが確実にGT-Rのユーザーが増えてきた。そこで細部をじっくりと検証するためにデモカーを製作。それが1993年のことだ。
「常連がR32を手放すというので譲り受けました。たしか1993年式だったかな。当時はサーキットでのタイムアタックが全盛だったので、サーキット向けに仕上げました」