かつては国ごとの「ナショナル・カラー」が決まっていた
かつて国際格式のモータースポーツは、レーサーやマシンの戦いの場であると同時に、オリンピックやサッカーのワールドカップのように「その国の威信を背負って立つ」という意味合いが今以上に強かった。そんな時代を象徴していたのがナショナル・カラーだ。
イタリアン・レッド、フレンチ・ブルー、ブリティッシュ・レーシンググリーンなど、それぞれの国ごとに決められていたナショナル・カラーを身にまとったマシンは、イタリア代表、フランス代表、イギリス代表……として各国を転戦していた。観戦する者は、たとえドライバーやマシンの名前を知らなくとも、目の前を疾走するマシンがどの国のチームかは一目瞭然だったわけだ。
ドイツのナショナル・カラーはもともと「白」
1934年6月にニュルブルクリンクで開催されたレース、「インターナショナル・アイフェルレンネン」のレース直前、最低車両重量規定をわずかにオーバーしていたためボディのペイントを全て剥離し、ギリギリでレギュレーションをクリアした「メルセデスW25」がアルミ地肌の姿で活躍。そのレース以降もそれをメルセデスがファクトリー・カラーとしたことから、ドイツのレーシング・マシンはシルバーという印象が強いが、もともとドイツのナショナル・カラーは白である。
ちなみに1964年にホンダが初めてF1に参戦した際も「白はドイツのナショナル・カラー」という理由で日本のナショナル・カラーが「白地に赤(日の丸)」になったのはよく知られているエピソードだ。
シシリー島を舞台にした伝説の公道レース
自動車が発明されて間もないころ、その性能を競うために始まったモータースポーツはもともと公道で行われていた。やがてマシンの性能が上がり競技の危険度が増すにつれ、公道で行われるロードレースは次々に休止となる。そしてレースは専用のクローズド・サーキットで行われるようになっていった……というのが一般的なモータースポーツの歴史。第二次世界大戦前後までには多くの公道レースが廃止され、あの有名な「ミッレ・ミリア」でさえ、沿道の観客を巻き込んだ大事故をきっかけに、1957年を最後にその歴史に終止符が打たれている。
自動車レース創世記に各国で開催された野蛮で危険な、しかしおとぎ話のようにロマンチックな公道レース。そのなかでもっとも後年まで開催されていたもののひとつが、イタリアは地中海のシシリー島で開催された「タルガ・フローリオ」である。1906年に第1回が開催され、二度の世界大戦をはさんでじつに1970年代後半まで続けられた。モータースポーツに対して熱狂的な国民性、島内だけで開催されるという地理的な特性から、ほかの公道レースが無くなったあとも長く存続したが、やはり観客を巻き込んだ事故をきっかけに1977年、ついに休止となった。