久米是志さんのエンジニア時代の業績を振り返る
本田技研工業の3代目社長を1983年から1990年まで務めた久米是志(くめ ただし)さんが2022年9月11日に亡くなられ、11月16日に「お別れの会」が都内で開催されました。そこで、2022年に本田技術研究所を定年退職した筆者が、久米さんの技術者としての、そしてマネージャーとしての足跡を全3回で振り返ります。
「創出」に対する深い造詣を久米さんに学ぶ
久米是志・元本田技研工業社長が2022年9月11日に90歳で亡くなられた。元本田技術研究所の所員として心よりご冥福を祈るとともに、3話にわたって久米さんの業績の一端を僭越ながら紹介させていただこうと思う。ただし私自身、久米さんとの接点はほとんどない。唯一お目にかかることができたのは、1980年代末の某機種の栃木プルービングにおける評価会の場であった。
1954年に静岡大学工学部を卒業し、その後に社長にまで上りつめた久米さんのことを私がより知るようになるのは、長かった研究所生活の末期に後輩所員たちに研究所における研究開発の成功例、そしてより重要な失敗例を語り継ぐためのネタを探し始めたときである。調べれば調べるほど久米さんの創出に対する深い造詣が感じられたので、つたない文章ながら紹介させていただこうと思う。ここでは久米さんの技術者としての、そして研究所でのマネジメントサイドを務められたときの業績に限らせていただこうと思っている。
ホンダ第1期F1参戦時にF2用エンジンで悪戦苦闘
まずは久米さんが担当した第1期F1参戦時(1964年~1968年)のF2エンジン設計(RA300EおよびRA302E)時に苦労された話が興味深かったので披露したい。当時のF2マシンのエンジン規定は、排気量1000cc以下のエンジンとされていて量産規定はなかった。このとき、ホンダがそのF2エンジンを造り2シーズン(1965年~1966年)のみブラバムF2チームに供給したことをご存知だろうか。このエンジンの設計主務者こそ、久米さんである。
参戦1年目の1965年は、すでに実績のあった2輪GPのエンジン設計のノウハウをもってすれば勝利するのはたやすいと思って造ったエンジンだったが、たしかにポテンシャルの片鱗を見せながらも、トラブルでリタイヤ続きだった。当初苦しんだのは、2輪では出ない横Gによりオイルが吸えず焼き付きが多かったトラブルだったが早期に解決。一方でコスワースより高回転だったホンダエンジンは、その振動で燃料ポンプが共振して燃料が十分に送れないという燃料供給系統トラブルを抱えシーズンを通して苦しんだ。
現地まで赴いた久米さんもすっかり意気消沈して河島喜好さん(本田技研2代目社長、2013年没)に弱音を吐いて叱責されている。それでも不調の原因が解析され、1965年最終戦では2位に滑り込んだ。
ホンダエンジン搭載のブラバムが12戦中11勝!
2年目となる1966年はこの経験を生かしボア&ストロークの変更も含め、バルブスプリングにトーションバー(世界初のDOHCエンジン搭載の量産車両となったCB450に後に採用)等の新機軸を盛り込み、初戦のグッドウッドを皮切りにホンダエンジン搭載のブラバムは12戦中11(連)勝という、後の1988年のF1(16戦中15勝)時代にも匹敵する成績を残す。
そこには久米さんの「このままでは駄目だという危機意識と散々迷惑をかけたこのチーム(ブラバム)が来年勝つために我々は何をすることができるか」という問いかけが「わが身から出た錆としての苦い失敗経験の反省に結びついた所産であった」としている。さらに「何とか危機を解決したいという思いが世のため、人のため、仲間のため」という「利他」の心である「友愛」を生起させ「辛苦に満ちた自利・利他の道をあえて進んでいく」という経過をたどる。そしてこのような場合に辛苦の果ての「創造のひらめき」が起こると述べられている(『ひらめきの設計図』久米是志・小学館・2006年より)。
苦い経験の後にたどり着いた「利他」の心
そう、久米さんはこのとき技術者として、より高みに至るためには「利他」の心が必要であると悟ったらしいのである。未熟な小生が久米さんの心中を察するなど誠に僭越ではあるが、久米さんの話には随所にこの「利他」の心が見られるのである。F2エンジン開発2年目のエンジン設計時を久米さんは次のように回想しておられる。少し長いが『ひらめきの設計図』よりさらに引用したい。
「エンジンのような少々複雑な構造物でもその構造の細部にわたっての視覚的な経験が蓄積してくると言葉では表現することができなくても、心のなかにその立体的な構造を視覚的なイメージとして思い浮かべることができるようになってくる。F2エンジン設計の例では、大失敗だった1年目の苦い経験の後に新しいエンジンの設計に取り掛かった時はそういう感覚が働いていたかと思われる」
なんとも凄みを感じる話である。話はさらに続く。
「(中略)当時の状況を振り返るとそこにはまず地獄体験の修行があり、その後に自らを閉じ込めていた言語論理から脱却した開き直りがあった。そして思考の対象となる『もの』は眼前にはなかったがそれまでの経験の蓄積で『もの』の姿がすでに心の中に染み付いていた。方針は言語で考えたがこれから作り出そうとする『もの』のあるべき姿は自然にイメージとして浮かび上がってきた。それは経験の蓄積を支えとはしながらもそこから何か今までなかった新しい構造が、言語意識が発動する前にイメージとして作り出されていたと感じる。しかもそのイメージは構造物の部分、あるいは部分と全体の調和関係が図られたものになっていた」のである。
新しいものを創出するためのステップ
つまり新しいものを創出するにはステップが必要である。
【1】失敗を経験し地獄の苦しみを味わう必要がある(久米さんは自分のせいでチームが1年間全く勝つことができなかったことの責任を強く感じておられた)
【2】苦しみの中から「世のため、人のため、仲間のため」と言う利他の心を生起しあえて辛苦の道を進もうと決意する必要がある。
【3】そこまで追い込まれることを経験した後では言語を超えたイメージとして調和のとれた構造体としての「もの」が自分の中に浮かび上がる。
もちろんそれまでに技術者としての引き出しの中にたくさんのストックを蓄えておく必要はあるだろう。久米さんたちにとっての研究開発とは、これほど厳しいものであった。われわれの現在の研究開発で時にぶつかる行き詰まりを、天国からご覧になった久米さんは「まだまだ修行が足りないようだね」と笑っておられるだろうか。
■いまはモンパルライダー 略歴
1957年北海道生まれ。工業系大学卒業後、トラック製造メーカーを経て1985年(株)本田技術研究所に中途入社、2022年に無事に定年退職。技術史に興味があり、とくにレーシングマシン、戦闘機や戦車等、極限で使われる機械、蒸気機関車などに機能美を感じ、興味の湧いたものをついつい深掘りして調べてしまう超アナログ人間。またそれらの模型を作ることも趣味で、最近は出戻りライダーとしてTL125に乗る。