久米是志さんが率いた初代「シビック」の開発と成功
本田技研工業の3代目社長を1983年から1990年まで務めた久米是志(くめ ただし)さんが、2022年9月11日に亡くなられた。そこで、2022年に本田技術研究所を定年退職した筆者が、久米さんの技術者としての、そしてマネージャーとしての足跡を全3回で振り返る。
「H1300」ではホンダ痛恨の「失敗」
久米是志さん追悼の初回は、初期F1参戦期におけるF2エンジン設計主務者としての久米さんを紹介した。開発におけるホンダのモノつくりへの倫理観は、創業者である本田宗一郎さんからの直系であろうと思われる。宗一郎さんも社員に対しよく「徳義心」という言葉を説かれておられたように記憶する。
今回は久米さんが開発に携わった初代「シビック」とCVCCエンジンについてのエピソードについて紹介させていただきたい。
初代シビック誕生の裏にもホンダとしての失敗作があった。1969年発売の「H1300」(ホンダ1300)と呼ばれる空冷エンジンを搭載したセダン(99/77)&クーペ(9/7)である(99セダン&クーペ9が高性能な4連キャブ仕様)。
空冷の「N360」の成功と宗一郎さんのこだわりもあり、ラジエターもウォータージャケットも不要な空冷1.3L SOHC 4気筒エンジンの搭載が決定された。ただし空冷を成立させるために二重強制空冷(DDAC)やドライサンプといった複雑な機構を必要とした。4連キャブ付の高性能版は115ps(リッターあたり89psは空冷ドライサンプの当時のCB750Fourと同値なのは偶然だろうか?)という高出力を誇った。
しかし空冷エンジンにした代償は大きく、熱と騒音対策で本来軽いはずの空冷エンジンが同クラスの水冷エンジンに比べて20kgも重くなり、コストもかさむ結果となった。さらにヒーターの効きも安定せず、ホンダファンの熱烈な支持はあったものの(直線だけは速い!)市場での評価はイマイチ。さらに空冷ゆえ来たるべき公害対策の燃焼コントロールにも不利ということでフェードアウトしてしまう。
開発チーム全員での議論とコンセンサスを重視
当時のホンダの企業規模からは「もう失敗は許されない」という状況で、次のクルマの企画を任されたのが久米さん世代であった。こうしたお客様不在のまま突っ走る失敗を繰り返さないための研究開発・評価システムを考案したのが久米さんと言われている。
開発に向かって走り出す前に(たぶんそれまでは走りながら考えていた?)、各部門から集められたPL(プロジェクトリーダー)たちは新型車のコンセプトについて「開発の目的は?」「その目的は信じられるのか?」「ユーザーは何を欲しがっているのか?」など徹底的に討議した。
例えば最高出力のようなスペックにこだわるあまり、日常運転するなかでの面白さや楽しさといった感覚の追求が不足しているとか、理屈でなく感覚として運転する面白さや楽しさを追求するというコンセンサスが開発チーム全員に共有された。さらに居住空間を大きく取る「マンマックス・メカミニマム」の「MM」思想なども全員で共有し、忖度なく言いたい放題のチーム内部の対立と、相互批判の渦巻く葛藤の結果の産物として、過去へのこだわりである「流麗さの表現であるデザインとブン回るエンジン」を捨て去ったのである。
シビック開発チームの脳内キャラクターはあの俳優だった!?
そして生まれたのが、小さくても威張れるクルマとして主張を持つデザインと、爽快な走りを実現する四輪独立懸架とディスクブレーキを備えた「少々風変わりで、地味なクルマ」、シビックだった。しかし世の中に出してみたら、このクルマは意外なほどの手ごたえでホンダの危機を救う屋台骨となったのである。「シビックの場合は新しい技術要素ではなく、既知の要素の組み合わせの関係性においての創造であった」と久米さんは回顧している。
ちなみにシビック開発時のチーム内のイメージキャラクター(CMに使ったわけではない)はチャールズ・ブロンソン(ご存知か? 「う~ん、マンダム」という化粧品CMで日本でも一躍有名になった)だったそうである。あるデザイナーの「アメリカに今人気のチャールズ・ブロンソンという俳優がいる。彼は失礼ながらズングリムックリで美男というイメージからはほど遠いが、そのエネルギッシュで活動的な雰囲気にはなんとも言えない魅力がある。彼のようなクルマを作ろう」という言葉にチームもなんとなく納得したそうである(『ひらめきの設計図』久米是志・小学館・2006年より)。初代シビックはその後、木澤博司さんがLPL(ラージ・プロジェクト・リーダー)を務められ1972年に上市させた。
低公害エンジン「CVCC」を実現したのは青臭いまでの「愛」
そして初代シビックのキモはなんと言ってもCVCCエンジンである。アメリカでは1960年代から大気汚染に対し各種規制が施行され、その決定打がマスキー法である。1975年発売車から排気中の有害成分を1/10まで下げるというとてつもなく厳しいものだった。宗一郎さんは「ここでマスキー法をクリアする低公害エンジンをホンダが作れれば最後発の自動車メーカーが一挙に世界一になれる」と言ったという。
だが、久米さんをはじめとするCVCC開発チームは議論を重ねるうちに「いちメーカーの私利私欲のためにやるのではない。この地球という星の空気をこれ以上汚さないためにやるのだ!」という青臭いまでの壮大な目的をチーム全員が共有するようになった。だからこそ「不可能を可能にする」とまでいわれた困難な目標を達成できた。
もちろん開発は辛く苦しいものだったが嫌になるどころか、むしろ困難であればあるほど闘志が湧いてくるチームであったという。このとき久米さんは、天才たる宗一郎さん引退後のホンダの舵取りをすべき人材について「優秀な参謀とはある一人の優秀な人間のことではなく開発チームがしっかり議論し、全員が目的を明確につかんでいることが重要だ」とし、さらに「頭で考えるなんてことではなく、身に染みるまで議論し体得するまでやってみることが大切だ。そうでなければいい仕事なんてできっこない」(『ひらめきの設計図』より)と悟ったのだ。
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ホンダには基本理念として「人間尊重」の思想がある。これは自立した個性を尊重しあい、平等な関係に立ち、信頼し、持てる力を尽くすことで喜びを分かち合いたいと言う崇高なものである。こうした久米さんから始まった人間愛に満ちたリーダーシップで、チームの力を出し切った成果がシビックであり、CVCCエンジンであったのだろう。そこにはやはり愛(利他)があったのだ。
余談ながら、人間愛に満ちたホンダが生んだCVCC技術は、惜しむことなく公開されており、他社にも技術供与されたのは意外に知られていない。
■いまはモンパルライダー 略歴
1957年北海道生まれ。工業系大学卒業後、トラック製造メーカーを経て1985年(株)本田技術研究所に中途入社、2022年に無事に定年退職。技術史に興味があり、とくにレーシングマシン、戦闘機や戦車等、極限で使われる機械、蒸気機関車などに機能美を感じ、興味の湧いたものをついつい深掘りして調べてしまう超アナログ人間。またそれらの模型を作ることも趣味で、最近は出戻りライダーとしてTL125に乗る。