チューナーの心に残る厳選の1台を語る【フェニックスパワー 横山耕治代表】
今でこそ理論に基づくチューニングに定評のある横山耕治代表だが、若いころは闇雲に突っ走っていた時期もあった。狙いがずれていては頑張っても的には当たらない。R33がそこに気付かさせてくれたのだ。
(初出:GT-R Magazine 150号)
経験からの勘を頼りにしてセッティングしていた時代
「小さいころはミニカーがお気に入りで、飽きもせずにずっと遊んでいたらしいです。ミニカーを与えておけば手が掛からなかったと親が言っていました。自分ではまったく覚えていないですけどね」
と、幼いころを懐かしむのは『フェニックスパワー』の横山耕治代表。記憶の中にある人生で最初に熱中したモノは単車だ。
16歳で中型自動二輪の免許を取得して、すぐにホンダ・ホークIIIを手に入れた。地元の先輩の影響で集合管にしたり、ハンドルを換えたりして改造を楽しんでいたという。
「ノーマルに手を入れて人とは違う仕様にする楽しさを覚えたのはこのころです。マフラーの音の大きさが最優先。速さは二の次でした」
四輪免許が取れる18歳になると、興味は一気にクルマへと移行した。すでに17歳で高校を中退し水産市場で働いていたので、学生よりも多少はお金がある。だから先輩のお下がりを格安で譲り受けられた。車高短、ハの字に仕立てられたケンメリやローレルを乗り継いだ。
「当時流行ったソレ・タコ・デュアル仕様で、速さよりも吸気と排気の音の大きさで目立たせる。バイクのころから少しも成長していません」
信号待ちで並んだソアラの迫力でチューニングに目覚めた
20歳のころにはハイソカーブームがやってきて、横山代表は流行に乗り遅れまいとレパードを購入。今度はフルノーマルだ。
あるとき信号待ちをしていたら横にソアラが並んだ。勇ましい排気音だったので、何気なく見ていると青信号と同時にあり得ない加速で走り去った。ものすごい勢いでみるみる小さくなっていく後ろ姿を横山代表は、呆然と見ていたそうだ。
どうしても気になって後日、仲間からそのソアラの情報を集めてみると、どうやら5M-Gエンジンにターボを付けているようで、その加速力はチューニングによるものだと判明した。そこから横山代表はチューニングに興味を持つようになった。
自分のクルマでもソアラのような加速感が味わいたくてショップに出向いた。こうしてレパードのL20エンジンにK26ターボの装着を依頼する。完成までの数週間は常にワクワクし通しだった。完成後はといえば、たしかに速くはなった、しかし不具合も多く発生した。
「当時はチューニングしたらトラブルはつきもの、という風潮でした。しかも、たいして原因を追求せずにとりあえず直す。今思えば、原因がわかっていなければまた同じトラブルを繰り返すのに。そんな時代だったんです」
友人の畑の一角を借りてショップをスタート
それでも不思議とチューニングが嫌いにはならなかった。トラブルと引き換えでも異次元の加速力は味わいたい。23歳でVG30ETを載せたZ31に乗り換えて、チューニング熱はますますエスカレートしていった。24歳での結婚を機に自分でチューニングショップをスタートさせてしまったほどだ。
友人の畑の片隅を借りて、そこに6m四方の小屋を建てた。ちょうど仕事を探していた昔から付き合いのあるメカニック、それに弟を誘い、情熱だけは人一倍あった3人で始めた。
それがフェニックパワーの前身であるガレージ福井スペシャルだ。横山代表はセッティング担当で、ターボチューンのクルマにサブインジェクターを使って燃調を整える。これが自己流とは思えないほど上手く決まった。
サブインジェクターのコントローラーのダイヤルを指で動かしながら排気温度計で燃焼温度を確認しつつ、ノッキングの発生に耳をそばだてる。ダイヤルのほんの僅かな動きでパワー感が激変。耳と指先にはとくに神経を集中させたという。自分のクルマで試行錯誤を繰り返していた経験値で身につけた「勘」でなんとか対応できた、チューニングが市民権を得る前の話だ。
28歳のころには現在のフェニックスパワー福井店の場所に移転。BNR32も多く手掛けることになる。素性が良かったのでライトなチューニングでみんな大満足。トラブルが出るまでには至らなかった。