モスクワの元ルノー工場を使ってロシアが独自に「国産車」生産へ
ウクライナ侵攻に抗議する意味でロシアから撤退する企業が相次いでいます。クルマ関連でもいくつかのメーカーが撤退を決めていますが、ロシア側ではそれを受け、かつては外国企業が運営していた工場で、自ら「国産車」を製造することを決定。こうして甦ることになった国民車、「モスクヴィッチ」の歴史を振り返ります。
敗戦国ドイツから引き上げたラインで誕生した初代モスクヴィッチ
モスクヴィッチ(Moskvitch)とはロシア語で「モスクワっ子」を意味するネーミングで、旧ソビエト連邦(ソ連)における最初の国民車でした。その原型は第二次世界大戦前の1940年に完成したソ連初のコンパクトカー「KIM10-50」でしたが、500台ほど生産されたところでドイツ軍の侵攻によって第二次世界大戦が始まり、生産は中断されてしまったのです。
戦後、戦勝国となったソ連は、敗戦国のドイツから戦争賠償としてフランクフルトに程近いリュッセルスハイムにあったオペルの工場からコンパクトカー「カデット」の生産設備を引き上げて、KIMを生産していた工場(後にモスクワ小型自動車工場=MZMAと名称を変更)に備え付けてカデット「似」のコンパクトカーを生産することになりました。
これがモスクヴィッチの初代モデル「400」でした。ちなみにオペル・カデットの初代モデル、カデット・セリエ1は名車の誉れが高く、モスクヴィッチ400以外に、イギリスの「ボクスホール10」やルノーの「ジュバカトル」など多くのコンパクトカーに影響を与えたとされています。
2代目から独自の進化を歩み4WDモデルも登場
モスクヴィッチ400は、1956年に2代目の「モスクヴィッチ402」に移行。ソ連の国内で開発された402は、戦前のオペル・カデットを名前だけ変えて生産していた、いかにも前時代的な400と比べると何もかもが一新されていました。メカニズム的に見ていくと、エンジンは当初こそ、先代に採用されていた1074cc/26psの直4フラットヘッド(サイドバルブ)ユニットを1222ccまで排気量を拡大し35psにパワーアップしたMZMA-402ユニットを搭載していましたが、2年後のマイナーチェンジで「モスクヴィッチ407」に移行した際には1360cc/45psの直4プッシュロッド(OHV)のMZMA-407ユニットに換装しています。
モスクヴィッチ400系も2ドア/4ドアのセダンをメインにフェートンやコンバーチブル、5ドアのステーションワゴンといった様々なバリエーションが生まれていましたが、第2世代の402系にも、やはり4ドアセダンや5ドアのステーションワゴン、3ドアのデリバリーバンなど負けず劣らず多くのバリエーションが派生していました。
注目すべきは410系として4輪駆動システムが組み込まれた派生モデルも存在していたことです。ソ連の首都でもあったモスクワは北緯55度付近。イギリスではスコットランドの首都エディンバラ、アメリカ合衆国ではアラスカ州と同程度の北方にあって、冬の寒さは厳しく氷雪路を走る機会も少なくないから4輪駆動システムは要求度の高い技術システムなのでしょう。いずれにしてもモスクヴィッチ402系は国民車として成長していきました。