日本で20年以上も生息した個体
このほどRMサザビーズ「LONDON」オークションに現れたランチア・デルタS4は、同じオークションにアウディ「スポーツクワトロE2」やランチア「037ラリー」のワークスカーも売りに出していたプライベートコレクター「グランツーリスモ・コレクション」から出品されたシャシーNo.215である。1986年シーズン開幕戦である、伝統の「ラリー・モンテカルロ」のためマルティーニ・カラーで仕上げられ、ヘンリ・トイヴォネンと彼の新たなナビゲーター、セルジオ・クレスト組に委ねられたワークスカーそのものである。
彼らのデルタS4は序盤から速さを見せ、ヴァルター・ロールのアウディに1分40秒の差をつけて首位に立ったものの、SS12のあとコントロールを失った通りすがりの一般車が、トイヴォネンのS4に激突してしまう。
この事故で片方の車輪が失われ、フレームも損傷。フロントカウルも破壊されてしまったことから、ラリーの継続は不可能とも思われたという。ところがサービスチームが路肩で必死の修復を行ったおかげで、シャシーNo.215は次のレグに進むことができた。
その後、タイヤ選択を誤ったなどの理由もあわせて、いったんは総合2位まで順位を落とすも、最終レグまでには立て直し、同じミッドシップ4WDのライバル、プジョー「205T16」に乗る2位のティモ・サロネンに4分以上の差をつけて勝利を得る。
このドラマティックな勝利から、トイヴォネンはグループB時代のWRCチャンピオン最有力候補として一気に注目されたが、残念なことにその望みがかなえられることはなかった。同年5月の「トゥール・ド・コルス」にて、この個体とは別のデルタS4に搭乗したトイヴォネンとクレストは悲劇的なアクシデントを起こして帰らぬ人となってしまう。そして結果として、このシーズン終了をもってWRCにおけるグループB時代も終焉を迎えることになったのだ。
いっぽうシャシーNo.215のデルタS4は、ラリー・モンテカルロにおける大役を果たしたのち、「ラリー・ド・ポルトガル」ではトイヴォネン、トゥール・ド・コルスではマルク・アレン、「アクロポリス・ラリー」ではミカエル・エリクソンのリザーブマシンとして帯同したのち、ワークスカーとしては退役となる。
そしてグループB規約の消滅後、プライベーターに放出されたシャシーNo.215は、ほぼ無改造のまま1988〜89年のヨーロッパ・オートクロス選手権に供用。優勝を含む好成績を上げる。さらに、1990年の「ラリー・アルピ・オリエンターリ」のコースカーとして供用されたのち、アバルトおよびジョルジオ・ピアンタと深いかかわりのある日本の某有名コレクターへと譲渡された。
そしてこの歴史的なデルタS4は、2013年に日本から英国のコレクターに譲渡されたのち、2019年にグランツーリスモ・コレクションに加わることになる。それ以来「BGMスポーツ」のケアを受けつつ動態保存され、最近では「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」などのイベントにデモンストレーション走行も披露している。
2億7000万円でも安い!?
グループB規約が突然終了したことで行き場を失ったデルタS4の多くは、その後ラリークロス競技などに転用・大改造され、オリジナル性は損なわれてしまった。そんな中、この元ワークスのデルタS4は放出されたあとも無軌道な改造を免れ、現在の識者の間では最もオリジナリティの高い生存車両の一つと目されている。
今や神話のごとく語られるグループB時代、その頂点ともみなされている1986年ラリー-モンテカルロで勝利をつかみ取ったシャシーNo.215に対して、RMサザビーズ欧州本社は175万ポンド~225万ポンドという、同時出品されたアウディ・クワトロS1-E2と同額のエスティメート(推定落札価格)を設定。
2022年11月5日に行われた競売では163万6250ポンド、すなわち日本円換算で約2億7100万円という高価格での落札となったものの、裏を返していえば今回のエスティメートには届かず、クワトロS1-E2の落札価格にも及ばなかったことになる。
その一因として考えられるのは、アウディの元ワークスマシンの大多数が現役から退いたあともメーカーによって厳密に管理されていたかたわら、ランチアはいかにも大らかな時代のイタリアらしく比較的イージーに放出されてしまった結果として、現在のマーケットに現れる可能性も多くなっている、というのもあり得るのではないだろうか……?