901運動を代表する車種「P10型プリメーラ」の後継として1995年に誕生
「1990年代に世界一の動的性能を実現する」という目標を掲げた、日産自動車の社内活動「プロジェクト901(901運動、901活動とも言われる)」の成果として、代表車種に挙げられる初代P10型「プリメーラ」。
それまでの日本車にはなかった質実剛健かつ高効率なパッケージと、欧州車と真っ向勝負するために鍛え上げられた走行性能が高く評価され、国内外でスマッシュヒットとなった。ただし、1995年にバトンを託された2代目のP11型は同時期に登場したS14型「シルビア」、R33型「スカイライン」同様に、デビュー当時、先代を超える評価は残念ながら得られなかった。
景気悪化による独自性の喪失と大型化もひとつの原因
評価を得られなかったのはなぜか? 901運動で登場したバブル期の車種たちはすべてがセールス好評とはいえなかった。だが、いずれも走りを前面に打ち出し、明確なコンセプトの下で開発され、アスリートのようなシェイプアップされたデザインを含めてクルマとしての評価は高かったのだ。
それを受け継いだ次世代モデルは、バブル崩壊による景気悪化に直面。開発コストが削られ、シャシーや部品の共用化を含めて独自性が失われていった。また、営業サイドからの圧力によって居住性や快適性の向上が求められ、さらに安全面の対応もあって車重は増えていく。デザインとマーケットニーズの乖離もあるが、塊感のある先代のボディと比べるといずれも大型化/肥大化したと捉えられてしまった。これはP11型にもそのまま当てはまる。
基本は好評だった先代のキープコンセプト。デザインは当時の流れであったやや大人路線でまとめられ、メカニズムは熟成改良を軸に開発が進められた。また、サニー店には専用のボンネットとグリルを採用した「プリメーラ カミノ」が用意されたのもトピックである。
熟成改良によりクルマとしてのトータルバランスは引き上げられた
車体はU14型ブルーバードと共用化され、全長30mm、全高15mm、ホイールベースを50mm延長したことで居住性を改善する。サスペンションはフロントこそマルチリンクを継続採用しているが、リアはストラットから合理的でシンプルな構造の車軸式マルチリンクビーム(AWDはストラットを継続)となるなど、コストダウンが図られていた。
ただし、硬すぎると一部から不評だった乗り味は見直され、初代よりもクルマとしてのトータルバランスが引き上げられているのはP11型の美点だ。
エンジンも初代からのキャリーオーバーで、2L直4のSR20DE(150ps)と1.8L直4のSR18DE(125ps、1998年には新世代のQR18DD型直噴エンジンとQR18DEエンジンに変更)の2本立て。フリクション低減のため、ローラー式ロッカーアーム、低・中速トルクを高めるトルクアップレゾネーター(SR20のみ)を吸気側に採用するなど、多少テコ入れされた程度で飛び道具は一切なし。
2代目は初代のような孤高の存在ではなくなり、性能とコストの両立を考慮した凡庸なスポーティセダンとなってしまった面は否めない。
新エンジン搭載でスポーツイメージの巻き返しを図るが……
失いつつあったスポーツイメージを回復するため、1997年9月のマイナーチェンジで可変バルブタイミング&リフト機構「NEO VVL」を備えた最新のSR20VE型エンジン(190ps)を設定。これにMT感覚の操作で走りが楽しめる6速マニュアルモード付きHYPER CVT-M6を組み合わせ、さらに視覚的にも高性能を訴える大型リアウイングを装着した新グレード「2.0Te-V」を投入する。
しかし、当時のマーケットは空前のレジャーブームに沸いていたため、マイナーチェンジと同じタイミングで追加されたワゴンの方が注目を集めることに……。この結果は、スポーツセダンとしてのプリメーラの役目が終わっていることを明白にしたというわけだ。
ただ、モータースポーツの世界では成功を収め、日本、ヨーロッパ、東南アジアで開催されたセダンによるツーリングカーレースでの活躍は目を見張るものがあった。イギリスツーリングカー選手権「BTCC」で1998年、1999年と2年連続でシリーズチャンピオンに輝いたのが、2代目のスポーツセダンとしてのハイライトだったかもしれない。