FIATが得意とするコンパクトな大衆車だけでなくスポーツカーやGTも
Centro Storico FIATの展示車両に話を戻しましょう。近年、国内でフィアットと言えば500と500X、そしてパンダが用意されているくらいでフルラインナップメーカーとの印象は薄いのですが、かつては堂々たる車種が用意されていました。
それが証拠に2フロアが用意されている展示エリアには、1899年製でフィアット最初のモデルとなったフィアット 4HPや、1924年製の“悪魔のクルマ”と呼ばれたレーシングカーのフィアット メフィストフェレスが提示されています。戦後モデルについても1947年式のフィアット 1100Sや1952年式のフィアット 8V、1955年式のフィアット ヌォーバ 1100のトランスフォーマビュレ、1961年式のフィアット2300S クーペ、1967年式のフィアット2400 ディーノ・クーペといったスポーツカーやグランツーリスモ、さらにはクーペやスピダーなどのスポーティモデルも数多く展示されていました。
しかし、やはりフィアットと言えばLa vetturetta per tutti gli Italiani(イタリア語ですべてのイタリア人のためのクルマの意)、つまりは優れた大衆車の代名詞ともなっています。実際に展示コーナーには1912年の大衆車であるフィアット 12/15HP Tipo Zeroに始まり、フィアット初の1Lクラスの大衆車であるフィアット509。さらにフィアットの歴史の中でも大衆車の傑作として記憶されているフィアット508バリラに関しては1932年式のベルリーナとスピダー、1933年式のオープン2シーター、508S バリラ ミッレミリアなどの戦前モデルが勢揃いしていました。
戦後になってもフィアットの素晴らしいコンパクトな大衆車が続々と登場してきます。このCentro Storico FIATでも、そんなモデルが数多く展示されていました。これは戦前に登場していたモデルですが、戦後に大ヒットしてイタリアの風景を一転させたモデルとして、フィアットの歴史上でも欠かすことのできないモデルとなるフィアット500“トポリーノ”やその後継となるフィアット600、フィアット ヌォーバ500など、フィアットらしいコンパクトモデルが、その存在をアピールしていました。
先進的なハードにも注目が集まっていたフィアット124ジグリ
またこれはコンパクトな大衆車という範疇に入るかは意見の分かれるところですが、1966年型の(とされる)フィアット124ジグリについても紹介しておきましょう。1953年に完全な戦後型として“ヌォーバ・ミッレチェント(新1100)”のキャッチフレーズでデビューしたフィアット1100の、さらなる後継モデルとして開発され1966年に登場したフィアット124は、1から始まる三桁の開発番号をそのまま車名にしていて、そのネーミングからも分かるように、それ以前のモデルとは一線を画すモデルでした。
フロントにディスクブレーキを標準で装備するなど先進的なハードにも注目が集まっていましたが、フィアットが旧ソビエト連邦と協力協定を結びアフトヴァズ(旧VAZ)で生産されることも大きな話題に。VAZ製のフィアット124はヴォルガ川沿いのジグリ山脈に因んでジグリの車名で旧ソビエト連邦内の各地に供給されるとともに、のちにはラダのブランドで東ヨーロッパ各国に輸出されることになりました。
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最初に訪れた際に駆け足で通り過ぎていたのは、さまざまなアーカイブが収蔵されていた“奥の院”だけでなく、展示車両に秘められた歴史の重さも見過ごしていたようで、あらためて自動車博物館の魅力を痛感した次第です。