フィアットらしいコンパクトモデルが多数展示
2022年6月、ヴェルナスカ・シルバーフラッグ(ヒルクライムレース)の取材でイタリアに出かけた際に、モデナとトリノ、そしてミラノで巡ってきた博物館の中で、以前にイタリアで最も新しい自動車博物館としてFCAヘリテージHUBを紹介しました。
そのFCAヘリテージHUBの“仕掛人”でもあるFIATの企業博物館、フィアット歴史博物館(Centro Storico FIAT)を紹介します。FCAヘリテージHUBではフィアットに加えてランチアとアバルト。トリノ生まれのフィアット系3ブランドのヒストリックカーを集めていましたが、今回紹介するCentro Storico FIATは、その名の通りイタリア屈指の、いやイタリアそのものとさえ形容されるフィアットの歴史を語り継ぐ歴史博物館です。
フィアットの歴史を生み出した商品群が出迎える
フィアットは1899年の創業以来、イタリア北西部、ピエモンテ州の州都であるトリノに本拠を構えています。最初に竣工した主要工場は、トリノ市内中心部のコルソ・ダンテに建設されていました。その後、1922年に鉄筋コンクリート造りの5階建てでルーフトップにテストコースを備えた(!)リンゴット工場が竣工すると、マザーファクトリーのポジションを譲りました。Centro Storico FIATはそのコルソ・ダンテ工場(の跡地)の一角に位置していて、建屋も当時のワークショップのそれをリニューアルして使用しています。
正面玄関を入るとフィアットの最初の製品である1899年式の4HP(3 1/2HPとも)と、そのリアに横倒しに搭載されていた水冷の直列2気筒エンジンが訪れたファンを迎えてくれます。そしてフィアットの歴史を語るうえで忘れてならないのは、フィアットの創業者グループの一員で、フィアットをイタリアはもちろんのこと、世界を代表するトップメーカーに育て上げた牽引役、ジョヴァンニ・アニェッリ(Giovanni Agnelli。同名の孫と区別するためにジョヴァンニ・アニェッリ・シニアとも)でしょう。彼の凛々しい肖像写真も大きく壁に貼られていて訪れたファンとともに、自らがけん引してきたフィアットの現在だけでなく、来し方と行く末を見守っているかのようです。
エントランスホールから展示ホールに一歩足を踏み入れると、そこにはフィアットの世界が広がっています。展示されたクルマはもちろん、航空機や船舶、鉄道車両の模型、さらには家庭用品の冷蔵庫や洗濯機まで、フィアットがこれまでに製造してきたありとあらゆるものが、それぞれテーマ立てて展示されているのです。
じつは、筆者がCentro Storico FIATを訪れるのは今回が2度目で、前回から9年ぶりです。最初に訪れた時は30数カ所の博物館を3週間で巡る弾丸ツアーだったこともあって、Centro Storico FIATも展示エリアに並んだクルマを駆け足で見て回るだけでした。その翌日にはイタリア国内でも屈指の収蔵台数を誇る国立自動車博物館/Museo Nazionale dell’Automobile(当時は創設者に因んでカルロ・ビスカレッティ国立自動車博物館/Museo dell’Automobile Carlo Biscaretti di Ruffiaと呼ばれていました)を訪れていたので、展示台数では数分の一に過ぎないCentro Storico FIATの印象は薄いものとなっていました。
子細に渡るアーカイブに驚愕
しかし今回は“奥の院”とでもいうべきアーカイブ(の一部)を見せていただき、その印象が一転してしまいました。歴代モデルに関する資料……発表時メーカーリリースやカタログはもちろん、解説書やサービスマニュアル、販促グッズやポスターまでが保存整理されていたのです。写真を撮るのは憚られた、というより凄さに圧倒されて写真を撮る余裕がなかったのは残念至極で、再度の訪問を決意しています。
FIATが得意とするコンパクトな大衆車だけでなくスポーツカーやGTも
Centro Storico FIATの展示車両に話を戻しましょう。近年、国内でフィアットと言えば500と500X、そしてパンダが用意されているくらいでフルラインナップメーカーとの印象は薄いのですが、かつては堂々たる車種が用意されていました。
それが証拠に2フロアが用意されている展示エリアには、1899年製でフィアット最初のモデルとなったフィアット 4HPや、1924年製の“悪魔のクルマ”と呼ばれたレーシングカーのフィアット メフィストフェレスが提示されています。戦後モデルについても1947年式のフィアット 1100Sや1952年式のフィアット 8V、1955年式のフィアット ヌォーバ 1100のトランスフォーマビュレ、1961年式のフィアット2300S クーペ、1967年式のフィアット2400 ディーノ・クーペといったスポーツカーやグランツーリスモ、さらにはクーペやスピダーなどのスポーティモデルも数多く展示されていました。
しかし、やはりフィアットと言えばLa vetturetta per tutti gli Italiani(イタリア語ですべてのイタリア人のためのクルマの意)、つまりは優れた大衆車の代名詞ともなっています。実際に展示コーナーには1912年の大衆車であるフィアット 12/15HP Tipo Zeroに始まり、フィアット初の1Lクラスの大衆車であるフィアット509。さらにフィアットの歴史の中でも大衆車の傑作として記憶されているフィアット508バリラに関しては1932年式のベルリーナとスピダー、1933年式のオープン2シーター、508S バリラ ミッレミリアなどの戦前モデルが勢揃いしていました。
戦後になってもフィアットの素晴らしいコンパクトな大衆車が続々と登場してきます。このCentro Storico FIATでも、そんなモデルが数多く展示されていました。これは戦前に登場していたモデルですが、戦後に大ヒットしてイタリアの風景を一転させたモデルとして、フィアットの歴史上でも欠かすことのできないモデルとなるフィアット500“トポリーノ”やその後継となるフィアット600、フィアット ヌォーバ500など、フィアットらしいコンパクトモデルが、その存在をアピールしていました。
先進的なハードにも注目が集まっていたフィアット124ジグリ
またこれはコンパクトな大衆車という範疇に入るかは意見の分かれるところですが、1966年型の(とされる)フィアット124ジグリについても紹介しておきましょう。1953年に完全な戦後型として“ヌォーバ・ミッレチェント(新1100)”のキャッチフレーズでデビューしたフィアット1100の、さらなる後継モデルとして開発され1966年に登場したフィアット124は、1から始まる三桁の開発番号をそのまま車名にしていて、そのネーミングからも分かるように、それ以前のモデルとは一線を画すモデルでした。
フロントにディスクブレーキを標準で装備するなど先進的なハードにも注目が集まっていましたが、フィアットが旧ソビエト連邦と協力協定を結びアフトヴァズ(旧VAZ)で生産されることも大きな話題に。VAZ製のフィアット124はヴォルガ川沿いのジグリ山脈に因んでジグリの車名で旧ソビエト連邦内の各地に供給されるとともに、のちにはラダのブランドで東ヨーロッパ各国に輸出されることになりました。
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最初に訪れた際に駆け足で通り過ぎていたのは、さまざまなアーカイブが収蔵されていた“奥の院”だけでなく、展示車両に秘められた歴史の重さも見過ごしていたようで、あらためて自動車博物館の魅力を痛感した次第です。