全長3メートルに大人4人が座れるパッケージング
SUBARU(かつての富士重工業)が最初につくったクルマは、P-1という1500ccエンジンを搭載した4ドアセダンだった。1955年に完成し、それはトヨタのトヨペットクラウン(のちのクラウン)が売り出された年と重なる。しかしP-1は、タクシーなどで一部利用されただけで、量産市販されたわけではない。それでも車名は、6社による合弁を重ねて誕生した富士重工を象徴するスバル(六連星)とした。
客室空間の在り方を研究し開発へ
P-1を開発した技術者たちによって本格的量産車として開発されたのが、軽自動車のスバル360である。これを率いたのは、P-1と同じ百瀬晋六(ももせ しんろく)である。
スバル360といえば、グリルレスの独特な風貌がまず思い浮かべられ、加えて客室の後ろに搭載されたリアエンジン配置であろう。当時の軽自動車規格である車体全長3メートル、車幅1.3メートルという狭い空間に、大人4人が座れる室内空間も、スバル360が人気を得た需要な商品価値であった。その理由は、百瀬の開発手法から探ることができる。
百瀬はまず椅子を4脚用意し、これを並べて客室空間の在り方を研究した。背が高かったといわれる百瀬が足を伸ばせる余裕を持ち、大人が4人座れる空間を作り込んでいった。そして木製の模型を作り、模型の表面に釘打ちポイントという余裕代を示し、外観の造形を行っていったのである。それが、あのスバル360の丸みを帯びた姿に結び付く。
開発手法は中島飛行機から受け継がれている
この開発手法は、富士重工業の前身である中島飛行機から受け継がれた、人間中心の考えによるものだという。人間中心の思想は単に室内空間に止まらず、技術においても貫かれた。航空機は、一旦空へ飛びあがってしまえば、無事着陸するまで乗員の命を守らなければならない。たとえ多少の不具合があって停車しても済む地面を走るクルマとは違って、航空機は安全保障の信頼性において格段の厳しさを持つ乗り物なのである。
そこから生まれたスバル360が、1958年から1970年まで12年間も販売し続けられたのは、乗員を無事に地上へ戻すという航空機産業を母体としたメーカーの神髄ともいえるクルマだからであり、長期的な視野に立った開発がなされたからだろう。
女性でも扱いやすかった
当時、父の仕事仲間がスバル360を所持しており、一緒にゴルフをしに行ったと聞いた。あのような小さな車体にどうやって大人4人が乗り、ゴルフへ行けたのか不思議に思った記憶がある。だがこうして、百瀬のクルマづくりの姿勢を知るに至り、なるほどと納得できるのである。
また、スバル360で通勤していた小学校の女性教諭もいた。女性でも扱いやすく、また外観も洒落ていたスバル360は幅広い支持を得て、12年という長寿命であったのだと、これも今になって思うことである。
のちに、競合としてホンダN360が現れる。スバル360とはまったく異なる手法だが、こだわりにみちた軽自動車であった。自動車産業にまだ手を染めたばかりの各社は、言葉通り創意工夫を凝らしていたのだ。