チューナーの心に残る厳選の1台を語る【RGF 金沢洋幸代表】
GT-Rは想像を絶する力を秘めている。家族の絆さえも深めてしまうほど、クルマというジャンルを超えた不思議な魅力を宿している。そこに多くのユーザーは惹きつけられるのだろう。福島県のプロショップ『RGF』の金沢洋幸代表が出会ったR34GT-Rも、そうした思い出のたくさん詰まったクルマなのである。
(初出:GT-R Magazine155号)
本気でプロを目指していたバイクレース三昧の日々
バイクに興味がなくとも、昭和生まれならば平 忠彦氏の名前ぐらいは知っているであろう。伝説のロードレースライダーは、『RGF』金沢洋幸代表と同郷で憧れの人。福島が生んだスーパースターだ。金沢代表は憧れの人に少しでも近付きたく、高校2年のときにバイクでSUGOを走った。
「初サーキットは散々でした。コーナーでバイクを十分に寝かせられないし、フルブレーキングさえもまともになんか踏めない。自分のレベルの低さに愕然としました」
こっぴどい洗礼を受けた金沢代表はバイクに嫌気が差すどころか、ますますめり込んでいく。元来の負けず嫌いの性格がそうさせたのだ。サーキットには月1ペースで通い、高校3年でクルマの免許を取ってもバイク熱は治まらない。初めての愛車にハイエースを選んだのも、もちろんバイクをサーキットへと運ぶためだ。
高校卒業後に参戦したプロダクションレースは2回とも予選落ち。転機が訪れたのは国際A級ライセンスを持つ人物と付き合い始めてからだ。プライベーターでワークスに果敢に挑み、とくに雨のレースではテクニックが冴え渡る実力派のその人は、金沢代表よりも3歳年上でとにかく無口だった。それでもめげずにいろいろと質問していくと、少しずつ答えてくれるようになる。その答えはどれもが的確で深かった。
恩師との突然の別れにバイクを下りることを決意
「19歳のときにはその人のメカニックをしつつ、自分でもレースに出ていました。その人のアドバイスが効くんです。成績が急上昇していきました。エビスサーキットのノービスクラスで年間に60ポイント以上獲得したほどです。後から聞いたのですが、セットアップのノウハウや想定外の対応を伝授するため、自分に1年間メカニックをやらせたということでした。たしかに実戦での経験が一番身につきますからね。そういう心底頼れるバイクの師匠です」
金沢代表は本気でプロを目指していた。体裁上は実家の建築業を手伝っていることにしていたが、実際にはレース主体の毎日。22歳のころにはヤマハワークスの登竜門とも言えるレーシングチーム「SP忠男」からオファーがあった。
そんな明るい未来が約束されかけたとき、思いも寄らない事件が勃発した。全日本レースのSUGO大会で師匠がハイポイントコーナーで転倒。翌年にはヤマハのワークス入りが決定していたのに、帰らぬ人となってしまったのである。
その日から金沢代表はもぬけの殻で気力が沸き起こらない日々が続く。SP忠男に行くのも取りやめて、バイクレースにひと区切りつけることにした。それでも師匠への恩は忘れない。師匠の家族、それにレース関係者の了承を得て、現在も金沢代表のヘルメットのカラーリングは師匠のものを継承している。
負けず嫌いの性格で真剣にドラッグレース開始
初めての乗用車購入は24歳。20型トヨタ ソアラだった。搭載している1G-GTがあまりにも遅く感じてターボをTO4Eに交換。バイクレースで培ったノウハウが通用し、工具もまだ持っていたので自分で作業した。そのクルマでストリートゼロヨンを覗きに行って参加もしたが、当時発売されたばかりのBNR32のブーストアップにはいくらやっても勝てなかった。
「やっぱり負けず嫌いなので、速いクルマを作ろうと思い、Z32、それも左ハンドルを手に入れました。もう自分の技術では無理なので地元の先輩でもあるエスコートの塩原浩代表に依頼して、ドラッグマシンに仕立ててもらったんです」
仕上がったクルマはGT3037Sタービンを2基がけして970psをマーク。仙台ハイランドでのHKSドラッグミーティングに初エントリーながら10秒6を叩き出し、FR部門で優勝してしまった。バイクで得たノウハウがドラッグにも生かされたのだろう、とんでもない快挙だ。
金沢代表は2~3回の練習走行でクルマの癖が習得できるという。アクセルのツキでパワーバンドを確認して、半クラッチでトラクションの掛かり具合を調整する。それを短時間で頭ではなく身体が覚え込む。
「ドラッグはFRクラスで9秒台、GT-Rクラスで8秒台が出せたらやめようと思っていました。目標を達成したのは32歳。ドラッグを始めて4年目でしたね」