『鉄腕アトム』の時代につくられた「未来のクルマ」のコンセプトカー
「半世紀」というスパンで物事を捉えたとき、科学文明の進歩は思った以上に速いかと思えば、その逆に思えることもある。かの手塚治虫の名作少年漫画『鉄腕アトム』が生まれたのは1952年だが、劇中では主人公のロボット、アトムが生まれたのはその年から半世紀後の2003年。その頃にはロボットが人間と共生し、社会生活を営んでいる設定だ。1950年代の人々にとって、21世紀というのは遥かな未来だったのだ。
人気コミック誌が「ホンモノの未来のクルマ」を企画
未曾有の惨禍をもたらした第二次世界大戦の終結から数年。その記憶もまだ生々しい1950年代の人々は洋の東西を問わず、現在では考えられぬほど「科学の進歩による人類の幸福」を夢見ていたのかもしれない。
戦前から続くベルギーの人気週刊コミック誌「ル・ジャーナル・ド・タンタン(Le Journal de Tintin)」。この漫画雑誌の顔ともいえる人気作品は『タンタンの冒険』の邦題で日本でもよく知られているが、この雑誌が1958年に、「ホンモノの自動車メーカーに1980年の“未来のクルマ”を考えてもらう」というユニークな企画を立てた。しかし、ある意味で荒唐無稽なこの雑誌の提案に、ほとんどの自動車メーカーは興味を示すことはなかった。
若きデザイナー、ロベール・オプロンの在籍していたシムカが製作
当時フランスのシムカに在籍していた若きデザイナー、ロベール・オプロン。彼は友人と「ル・ジャーナル・ド・タンタン」が提案した「未来のクルマ」の企画について話し合い、この人気コミック誌の影響力を考えれば、企画に参加すべきと考えるに至った。オプロンは熱心に会社に働きかけ、その結果、欧州の自動車メーカーで唯一、シムカが「ル・ジャーナル・ド・タンタン」の提案に呼応。2000年(1980年から変更された)を走る未来のクルマを「ショーモデル」として製作することとなったのである。
ちなみに1958年といえば、北米のクライスラーがシムカの株式の15%を取得し、北米での販売代理店となった時期とも重なる。後年には「クライスラー・フランス」となるシムカだが、派手なコンセプトカーで衆目を集める手法にゴー・サインが出たのは、デトロイトの影響もあったかもしれない。
「音声コマンド」に「燃料電池」に「ジャイロスコープ」! 当時としては超SFなスペック
ロベール・オプロンはさっそく「未来のクルマ」の制作に着手。シムカ「フルグル」(ラテン語で閃光の意)と呼ばれたそれは、当時のSF映画の空飛ぶ円盤や宇宙船にも通じるデザインが取り入れられた。
スペック的には「ドライバーが入力した音声コマンドに反応し、レーダーによる自動運転」、「動力は原子力、あるいは燃料電池(水素電池)によるEV」「150km/h以上で走るときには4輪のうち2輪が車体に格納され、ジャイロスコープでバランスをとりつつ2輪だけで走る」など、2000年代には実用化されているだろうと思われたさまざまなアイデアがうたわれている。
この「開発」の様子は「ル・ジャーナル・ド・タンタン」誌1958年12月11日号からさっそく記事として紹介され話題となる。シムカ・フルグルの「実車」も翌1959年には完成。パリとジュネーブのモーターショーには「2000年、未来のクルマはこうなっている」という技術資料とともに出展され、一躍脚光を浴びることになる。
ロベール・オプロンはのちにシトロエンで数々の名車を手がけることに
さらにシムカ・フルグルは、大西洋を渡って1961年のシカゴオートショーにも出展され、こちらでも注目を集める。もちろん実際のシムカ・フルグルの中身は架空のスペックとは異なり、当時のシムカ製乗用車のシャシーに未来的なデザインの樹脂製ボディを設えただけの純然たる「ショー・モデル」ではあったが、アメリカでは決して知名度が高いとはいえなかったシムカの名を知らしめるのに大きな役割を果たしたことだろう。
科学の進歩が人類の幸福に直結すると、無邪気に信じられていた時代に作られた「未来のクルマ」、シムカ・フルグル。ひるがえって、われわれがいま暮らす現在から半世紀後のクルマは、どのような進化を遂げているだろうか。あるいは、遂げているべきであろうか……。
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ちなみにシムカ・フルグルを作ったロベール・オプロンは、のちにシトロエンに移籍。そちらではシトロエン「SM」や「CX」などのデザインを手がけ、高い評価を受けることとなる。また、1999年にアメリカで行われた「カー・デザイナー・オブ・ザ・センチュリー」のコンペでは、25人の候補者の一人に選ばれている。