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トヨタ「ヤリス」のご先祖「スターレット」が生誕50周年! 初代はレースで圧倒的な速さを誇りました

1973年の2ドアクーペ誕生時は「パブリカ・スターレット」だった

富士マイナー・ツーリングレースで「サニー」や「シビック」と激戦を展開

2023年で誕生から50周年を迎えるクルマの1台が、トヨタの「スターレット」です。その後、「ヴィッツ」を経て現在では「ヤリス」を名乗るトヨタのエントリーモデルの1台ですが、スタイリッシュさでは後裔たちに引けを取ることがありません。そしてモータースポーツの活躍も記憶に鮮やかです。そんなスターレットを振り返ります。

国内初の「大衆車」を名乗ったパブリカ

トヨタ初の純国産乗用車として1955年に登場した(当時の)小型乗用車フルサイズの「クラウン」と、57年に登場した1Lクラスの「コロナ」に続いて、トヨタにとっては3本目の柱として1961年に登場した大衆車が「パブリカ」。車名のパブリカ(Publica)は、大衆車を意味するパブリック・カー(Public Car)からの造語です。ユニークな700ccの空冷フラットツインをコンサバな3ボックス2ドアボディに搭載する、質実剛健なモデルでしたが、まだまだクルマが贅沢品であった当時の国内マーケットでは苦戦することになりました。

そこでトヨタでは、オートマチック仕様のトヨグライドモデルやハイパフォーマンスなパブリカ・スポーツ、あるいはバンやトラックなどの商用モデルを追加するだけでなく、1963年にはラジオやヒーター、リクライニングシートなどを装備し、エクステリアではクロームメッキやモールなどの加飾を施したデラックス仕様を追加することになり、これをきっかけとして販売台数は伸びていきました。

その後パブリカは、1966年には大幅なマイナーチェンジを受け排気量を800ccに拡大、フロントノーズ&リアデッキを形状変更するなど大がかりで、これをフルモデルチェンジ=2代目とする説もありますが、1969年には初のフルモデルチェンジを受けて2代目に移行しています。

じつはパブリカの2代目が登場する3年前、1966年には後に世界的なベストセラーとなる「カローラ」が登場しています。1969年に登場した2代目パブリカはカローラの弟分らしく、1Lの直4エンジンは、カローラに搭載されていたK型エンジンのボアを縮めて誕生した2K型でしたし、フロントをマクファーソンストラット式、リアをリーフ・リジッド式としたサスペンション形式も、カローラと同様の基本デザインとなっていて、ボディサイズもカローラと旧パブリカの間にあるというサイズ感だったのです。

パブリカのスポーティモデルとして登場したスターレット

さて、そんな2代目パブリカをベースに、スタイリッシュな2ドアのクーペボディを架装したモデルが今回の主人公、スターレットです。ベースにした派生モデルというよりも、1クラス上のスポーティ・クーペといった立ち位置で、搭載されていたエンジンこそ1L(993cc/58ps)の2K型と1.2L(1166ccでK型のストローク延長版。最高出力はツインキャブの3K-Bが77psでシングルキャブの3Kが68ps)の2種3仕様で、これはパブリカと全く同様でした。

ですが、ボディサイズは全長3790mm×全幅1530mm×全高1310mmとホイールベース2265mmとなっていて、これはカローラ(3945mm×1505mm×1375mmと2335mm)とパブリカ(3670mm×1450mm×1380mmと2160mm)のちょうど中間となっていました。重量的にもスターレットは720kg~755kgで、これまたカローラ(730kg~790kg)とパブリカ(665kg~690kg。ちなみに空冷フラットツインを搭載したパブリカ800は635kg~650kg)のちょうど中間あたりに収まっていました。

ツインカム16バルブの「3K-R」エンジンを積みレースに参戦

スターレット、初代モデルだから正確にはパブリカ・スターレットが、最も輝いていたのはやはりサーキットレースの現場でした。より正確に言えば、1970年代に富士スピードウェイの看板レースの富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズのサポートイベントとして開催されていた富士マイナー・ツーリング(MT)レース。スターレットの活躍を紹介する前に、まずは富士MTレース・シリーズについて簡単に紹介しておきましょう。

富士MTは1300cc以下の特殊ツーリングカー(TS)によるスプリントレースで1971年に始まっています。当時のTSレースは、1960年代の末からはカローラを主戦マシンとするトヨタ勢がクラスを牛耳っていましたが、1970年に「サニー」がモデルチェンジを受けて2代目(B110系)が登場。同年11月に富士スピードウェイで行われたTrans Nicsというツーリングカーレースの新シリーズ開幕戦で鈴木誠一選手がサニー・クーペ(KB110)のデビュー・レース・ウィンを飾ったことで勢力図が変わってきます。

トヨタ勢はワークスチームがカローラやパブリカ(水冷の2代目)を投入していましたが、対するサニー勢は大森ワークスやプライベートの各チューナーが精力的にチューニングに励んで戦う図式となっていきました。そして一進一退を繰り返しながら、やがてサニーが圧倒的なパフォーマンスを見せつけるようになった状況で、トヨタが繰り出した秘密兵器がスターレットだったのです。

何といっても最大の武器は、ハイパワーを絞り出すエンジン。市販モデルに搭載されている3Kユニットをベースに、レースオプションとして開発されたツインカム16バルブ・ヘッドを組み込んだ137E、通称「3K-R」で知られるレース・エンジンです。3Kは1166ccですが、137Eは1296ccとクラスの限度いっぱいまで排気量を拡大し、登場時点での最高出力は185psとされていましたが、最終的には210psまでパワーアップが進んだとも伝えられています。

ライバルだったサニーのエンジンはプッシュロッドの8バルブ。スペックを見ただけでもそのパフォーマンスの優劣は明らかでした。実際のところ、「3K-R」を搭載したスターレットが登場した時点で、これを迎え撃つ格好となったサニー勢のA12エンジンは140ps程度だったようで、45psものパワー差は圧倒的でした。

その一方でデビュー戦では720kg近くもあったスターレットの車重(公認重量は695kg)は620kgのサニーに対して100kg近い「ウエイトハンディ」を背負っていましたが、それでも40psのパワー差を逆転することは叶いませんでした。スターレットのデビュー戦となった1973年11月の富士GC最終戦のサポートレースではTMSC-Rの久木留博之、舘 信秀の両選手が公式予選から圧倒的なタイム差で1-2を堅持。決勝でも見事な1-2フィニッシュでデビュー戦を飾ることになったのです。

ツーリングカーレースで記録と記憶に残る大活躍

ただしこれはあくまでもスターレット栄光の記録のプロローグ。本編はトヨタ・ワークスが国内レースの現場から撤退し、その代わりにexワークスのスターレットをトムスと桑原(主に鈴鹿で活躍)に貸与した1975年の5月に快進撃が始まるのです。再デビューとなった日本グランプリのサポートレースでは舘選手が長坂尚樹選手のサニーを振り切って優勝し、3位には桑原スターレットの竹下憲一選手が続いていました。

そして、やはりスターレットが猛威を揮うことになったのは富士のMTでした。実際、1975年から1978年までの4シーズンで、全20戦のうち17勝(第2戦から出場の1975年は4勝、1976年と1977年は5戦4勝、そして78年は5戦全勝)と圧倒的な強さを発揮し、1975年と1976年は鈴木恵一選手が2連覇を果たし、77年はチャンピオンを逃したものの、1978年には星野 薫選手がチャンピオンに輝いています。また富士MT以外のメジャーなTS1300レースにおいて1975年から1979年に14勝を挙げるなど、スターレットの速さは圧倒的でした。

しかし、サニー勢の反撃も見事でした。プッシュロッド8バルブのA12エンジンにチタン製のバルブやコンロッド、さらにカーボン製のプッシュロッドなどを組み込んで高回転化を実現、最終的に最高出力は170ps近くにまで達していました。またサスペンションにも大幅に手を入れるなど究極のツーリングカーへと昇華し、1979年には都平健二選手がMTチャンピオンを奪還することになったのです。

ツインカム16バルブの「3K-R」を搭載したスターレットの存在も凄かったのですが、それを目標にチューニングを進めてきたサニー勢に加えて、1970年代後半から姿を見せたシビックも含めた究極のバトルは、今も語り継がれています。

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