2気筒エンジンの痛快なサウンドをオープンエアで楽しめる
「クラシックカーって実際に運転してみると、どうなの……?」という疑問にお答えするべくスタートした、クラシック/ヤングタイマーのクルマを対象とするテストドライブ企画「旧車ソムリエ」。
今回の主役としてセレクトしたのは、この企画では初となる国産クラシックカー。トヨタ「パブリカ」のコンバーチブルモデルである。1955年に当時の通産省が提唱した「国民車構想」に基づくベーシックカーでありながら設定された瀟洒なオープンモデルの実態と、そのドライビングフィールについてお話しさせていただくことにしよう。
簡素なパブリカのイメージ高揚のために設定されたコンバーチブル
パブリカは現在の「ヤリス」の系譜の源流にあたるトヨタ初の小型車として、1961年6月にショーデビュー。同時に、この時点では単に「トヨタ大衆車」とのみ称されていた車名を一般公募する旨も発表され、同じ年の11月までに応募した約108万件におよぶ投票で決まったのが「パブリック・カー(大衆のクルマ)」を短縮した「パブリカ」だったという。
もともとは、1955年に通産省(当時)が提案した国民車構想に呼応して生まれたクルマのひとつとされており、共通の構想から誕生した鈴木自動車の「スズライト」や富士重工の「スバル360」あるいは三菱自工の「コルト500」などにも負けず、そのテクノロジーは独創的かつ個性的なものだった。
1956年にトヨタ自工が開発した1次試作車では、現在に至るまでトヨタ史上唯一となる空冷エンジン、水平対向2気筒OHVユニットで前輪を駆動する先鋭的なテクノロジーも試されたとのこと。だが、さすがに時期尚早と判断されたのか、市販モデルでは同じ空冷フラットツインを搭載しつつも、格段にコンベンショナルなFRとされることになった。
こうして市販に移された初代UP10系パブリカは、わずか697ccの小排気量車ながら、大人4人が長距離を移動することを可能としたキャビンスペースに、軽快な走行性などを身上とした。そして本体価格38.9万円というロープライスをうたったものの、その実現のために内外装とも簡素に仕立てられたことから、乗用車に夢を抱いていたマーケットは戸惑いを覚えてしまう。しかも、この時代になると軽自動車もデラックス化が始まっており、簡素に過ぎると評されたパブリカのセールスは、低迷を余儀なくされた。
事態を重く見たトヨタは、フロントグリルをはじめとするトリムにメッキ加飾を施し、インテリアも若干の高級化を図った「デラックス」仕様を1963年7月に追加。さらに3カ月後の同年10月には、トヨタ初のオープンモデルとなる「コンバーチブル」(UP10S型)も設定されることになった。
旧プリンス自動車の超高級パーソナルカー「スカイライン・スポーツ」に続いて、日本車第2のオープンモデルとなったパブリカ・コンバーチブルは、パブリカのイメージアップを図るためのカンフル剤だったが、その目論見は的中。シリーズ中で一定の売上げを記録するとともに、パブリカ全体の底上げにも貢献したという。
その後のパブリカは1964年9月の一部変更を経て、1966年4月からはボディ前後を大幅にモダナイズしたUP20系に進化。同時にエンジンは、全車790ccに拡大された。今回取材したコンバーチブルも、後期型ともいうべきUP20Sの1台である。
空冷水平対向2気筒OHVのエンジンは、セダンではシングルキャブの2U-B型36psを載せていたのに対して、コンバーチブルはオープン化にまつわるボディ補強がもたらす重量アップに備えて、トヨタ「スポーツ800」と同じツインキャブの2U型45psを搭載。UP10S時代のコラムからフロアシフト化された4速MTを介して最高速度は125km/hと標榜した。
1966年12月にはソフトトップに代えて、プラスティック製の脱着式ハードトップを装備する「ディタッチャブルトップ」バージョンも追加されたが、こちらはごく少数の生産に終わってしまう。
それでも、コンバーチブルの存在に後押しされたパブリカは、大衆車の定番たる地位を確保したのち、水冷エンジンも加えた第2世代にあとを譲るかたちで、1969年4月に生産を終えることになったのだ。
なおコンバーチブルは、2代目以降のパブリカには設定されることなく、UP10SおよびUP20Sのみに終わっている。