初代シビックから開発に携わり3代目から開発責任者を務める
1944年生まれの伊藤博之さんは66年に本田技研工業に入社。1969年に初代「シビック」開発チームに配属されて以来、3代目ではLPL(ラージプロジェクトリーダー)を務め、6代目までシビックに携わっている。2004年に定年退職してからも健勝な「ミスターシビック」にインタビューする機会を得たので、当時の開発エピソードから最新シビックへの思いまで、ざっくばらんに語っていただいた。
何から何まで独特の存在だった初代シビック
──現役でいらした頃に何度も機会をいただいてお話を伺っているせいか、僕の中では、今でもシビック=伊藤さんというイメージが強くあります。
「私は初代シビックから開発に携わっていたから、もう50年以上前のことになります。思えば当初は、新婚旅行もダメといわれながら仕事に没頭していた(笑)」
──エッ、それほどだったんですか。初めて伺うお話です。
「初代シビックはいろいろな意味で思い出深い。高速道路を走っていたら『Nかい?』、『軽かい?』と言われた。アメ車のデカいクルマをスポッ! と切ったようなデザイン。幅に対して全長の短いプロポーションも独特だった」
──初代シビックが出た当時、僕は中学生でしたが、最初に見たとき、あまり見かけないカタチだったせいか、後ろが裁ち落とされたちょっとズングリした形のクルマだなぁと思いました。最初シビックは上ヒンジでしたが昔のミニと同じトランク式で、ハッチバックはあとから追加されたのですよね?
「そう。初代が出てすぐに、アメリカを含めハッチバックを出した。でも『3ドア』と付けたら『人が乗り降りできる3つ目のドアはどこにあるんだい?』と言われた」
──VWゴルフも当初は2ドア、4ドアと呼んでいましたよね。
「表現の仕方もホンダは独特で『3ドアハッチバック』と呼んでいました」
宗一郎さんは空冷が大好きだった
──初代シビックといえばCVCCの話は外せませんが、開発当時、CVCCに関して本田宗一郎さんと伊藤さんの間でどんなやりとりをなさったのですか?
「じつを言うと、宗一郎とCVCCの話はしたことなかった。宗一郎にはCVCCじゃないシビックに乗ってもらったときに、室内にもってきた『水ホース』の振動がうるさいと言われた。要するに水冷が嫌いだったという話なの。CVCCに関しては完全燃焼ができないところがどうしてもたまにあって、私のところに来て『3.5発のエンジンを作りやがって』と。で、エンジン屋ではない私に、ちゃんと直せと言う。『ロンメル将軍の西ドイツが勝てたのは空冷だったおかげだ』と……それであの人は空冷が大好きだったんだな。空冷のN360も大変な思いをさせられました。1300なども作ったりしながらライフとかやり、なんとか騙し騙し水冷の方向にもっていった……そんな感じでしたね」
「ありもの」で苦労してつくった2代目「スーパーシビック」
「で、2代目シビックも手がけましたが、新しいエンジンはダメと言われたり、あるもので新しいクルマを何とか作ろうとしたものの、世の中甘くなくて良い評判は得られずに……」
──1軸式のメーターなど画期的でしたが、よくよく考えれば初代プレリュードで「あったもの」ということですね。狙ってキープコンセプトにしたというわけではなかったと。
「エンジン一緒にしてくれと言われた瞬間から、新しいものにするのは難しい、キープコンセプトにせざるを得ない。存在感が違うところまでなかなかいけなかったというのが正直なところかな」
──オレンジ色のスーパーシビックCXなんて、当時なかなかイカすと思いましたけれど。
「色はよかったけどね」
──伊藤さんは2代目も正式な開発責任者だったのですか?
「いや、責任者は別にいたのだけど、何かあるたびに彼が私のところに来る。しょうがないから私はLPL(ラージプロジェクトリーダー)でも何でもなかったけれど、聞かれれば案を出し、コントロールをしていた」
3代目「ワンダーシビック」では4つのボディタイプを新しく表現できた
──そして3代目のシビックは、2代目とは打って変わって斬新に……。
「そう。3代目では新しいことをやろう! ということに。アメリカから来たデザインで『これだ!』と、ロングルーフでコーダトロンカのフルドアを採用した3ドアを作ることにした。一方で4ドアはホイールベースを伸ばしてキチンと座れるように。シャトルはシティと同じように背の高いフォルムとし、このクルマもホイールベースは違った。CR-Xは、アメリカの50マイル燃費世界一のクルマにしようと、あのスポーティな形で出した。エンジンはシティのそれがベースで、やれることは全部やってボンネットは低くし、トーションバーストラットも採用した。3ドアはロングルーフのおかげでリアシートの100mmスライドも実現でき、とにかく、他のクルマがやっていないことをやったのが3代目でした」
──とにかく3代目シビックは存在感からしてカッコよくて、バラードスポーツCR-Xを含め、どのボディタイプも乗りたい! と思わされる魅力を感じるクルマでした。
「初代シビックで評判だったトレイ状のインパネも3代目では復活させ、背の高いシャトルではポップアップ式のエアアウトレットもやった。シャトルではキャンプに行って使えるようにシートを外せるようにしたものの、当時いろいろあって実現できず……」
──4つのボディタイプのアイデアはすべてアメリカから来たものだったのですか?
「いやアメリカからもらったのは3ドア。あとはすべて日本で、フラッシュサーフェスを基本にしたセダン、シャトルと、燃費のために徹底的に空力をよくしたCR-Xをやった。お金も未曾有に使って(笑)。普通から言うと、なんでホイールベースが違うんだ? となるが、いや4ドアは3ドアより長くするんだ、良いものは良いんだ……とやって、ホイールベースを一緒にする気なんてまったくなかった。国内では初代シティが爆発的に売れて、アメリカでアコードがうまく行きはじめた背景があったから、シビックは勝負ができた。3ドアは2ボックスだから『23L』、セダンは3ボックスだから『35G』、シャトルは5ドアで『55i』と数字を使って、共通のシビックであることを超えてまったく新しく表現するのも、したいことだった」
元気なクルマを作らないとホンダじゃない
──その3代目、ワンダーシビックといえば『What A Wonderful World』のあのCMが印象的でしたが、あれも伊藤さんのアイデアだったのですか?
「あれはクルマが出来て有ちゃん(宣伝を手がけておられた有澤さん)に見せたら『サッチモでいこう』となった。あの人は、世の中にどうやれば受けるかと考えたときに、あまりしつこく何かをしないほうがいいと考える人だった。3代目シビックも、『ワンダーシビック登場とサッチモの歌だけでいい』と。その前にプレリュードのボレロも、シティもやっていましたから彼のことは信頼していたよ」
──一世を風靡したCMでしたよね。
「シティが世の中にちょっと違う息吹を出せた経験から、やっぱり元気なクルマを作らない限りホンダじゃないね、というのがあった。ホンダが元気にならないとお客さんも元気にならない。変な話かもしれないけれどわれわれはそう思っていました」
今のシビックはタイプRがあってこそ
──ところで最新のシビックは、伊藤さんはどう評価されているのですか?
「私は全然乗っていないからなんとも言えないけれど、やっぱりこのクルマでどれだけお客さまが満足してくれるのか? ということでいうと、ちょっとわからない。だからタイプRに乗れば、シビックというクルマがどれだけ良いかということがわかるのだと思う。タイプRがないと……というのが私の感覚」
──シビックはクルマとしては素晴らしいと思いますが……。
伊藤さん:ガワ(外見)がね、って言いたいんでしょ?
──あ、はい。歴代シビックを並べて見たときに、初代からこの最新型への連綿と繋がっている感じが受け取りにくいというか……。
「そう、だからタイプRがあれば、ベースのシビックはタイプRの兄弟だと思えるようになる、それだけで済む」
──タイプRはシビックにとって必然ということですね。
「そう。そのためにニュルブルクリンクまで行って走っているんだから」