ミドルクラスの常識を超えたパフォーマンスと精度を実現
カーラ・プロジェクトの中止により、再びペンディングとなったかに見えた新生スモール・ランボの開発だが、そのプロジェクトは水面下で続行。18世紀スペインの闘牛飼育家であるフランシスコ・ガヤルドにちなんで「ガヤルド」のネーミングが与えられていた。
グループの総帥、ピエヒ博士のお気に召さなかったカーラのスタイリングはゼロから見直され、ランボルギーニ社内チェントロスティーレ(デザインセンター)のマネージャーを務めていたベルギー人スタイリスト、ルク・ドンカーヴォルケに委ねられることになる。
少年時代からクラシック・ランボに憧れ続けてきたというドンカーヴォルケの主導により、傑作カウンタックLP400とその作者ガンディーニへのオマージュのごときウェッジシェイプが強調されたボディは、清潔感と様式美、そして未来感も混在した不思議な魅力を獲得していた。
しかし、ガヤルドにおける最大の新機軸となったのは、親会社となったアウディがアメリカのアルコア社と開発を進めてきた軽量プラットフォーム、いわゆる「ASF」由来のアルミ合金製スペースフレームを採用したことであった。
そして、5L V型10気筒ユニットが発生する500psのパワーは、同時代のフェラーリ「360」シリーズを100psも上まわるもの。シングルクラッチ式6速シーケンシャルMT「eギヤ」がデフォルトとされたのも、きわめて重要な技術的トピックといえるだろう。
また、有能な4WDシステムの効力でトラクション性能にも優れるほか、総アルミ製高剛性シャシーがもたらすハンドリングやロードホールディングも、この時代のスーパーカーの水準を一歩押し上げるものだった。
一方、インテリアにはアウディのパーツも多用されたが、組み付けや仕上げの良さもアウディ基準となる。つまりガヤルドは、たとえアウディのテクノロジーを借りようとも、ミドルクラスの常識を超えたパフォーマンスと、従来のランボルギーニには考えられなかったレベルの品質と精度を獲得した、新時代のスモール・ランボとなったのだ。
大ヒット作となったガヤルドの功罪とは?
さらに、ランボルギーニ製スーパーカーとしてのエキゾティックな魅力に何らのかげりもなかったことは、「ウラカン」の登場によってフェードアウトするまでの10年間の累計生産台数が、じつに1万4022台にのぼったことでも証明された。
当時のランボルギーニのコメントによると、この生産台数はのちにウラカンや「ウルス」に抜かされるまで、歴代ランボルギーニ車では最多だったうえに、同時代の競合スーパーカーのなかでも成功したモデルのひとつとなった。
もしもガヤルドの成功がなければ、2003年にコンセプトカー「アウディ・ル・マン・クワトロ」としてショーデビューしたアウディ「R8」が、生産化に移される可能性も低かったとも言われている。また、ガヤルドでいち早く実績を得たV10エンジンが、のちにR8にもコンバートされるなどのシナジー効果に及ぶこともなかったとも思われる。
さらに、ガヤルドと後継車たるウラカンの大成功によって、アウトモビリ・ランボルギーニ社の懐事情にも余裕ができた。あるいは、フォルクスワーゲン・グループ内における姉妹車の作り分けにもメソッドを確立したことによって、現在のランボルギーニを支えるメガヒット作、ウルスが誕生することになった。
こうして見ると、ガヤルドがランボルギーニ社にもたらした「功」は、あまりにも大きかったと言わざるを得ない。しかし、もしも「罪」の部分があるとすれば、それはアウディとの関係性の深さが、守旧派のランボルギーニ愛好家には少々寂しくも感じられたこと。とくに、いささか「お行儀の悪い」たぐいのファンにとっては、もの足りないとも感じられたくらいしか思いつかないのである。