歴代ランボルギーニ車で最多生産数を記録したガヤルド
この2023年も、自動車史上に冠たる名作、あるいはエンスージアストの記憶に残るクルマたちが、記念すべき節目の年を迎えることになる。近年では、とくに長い歴史を誇るブランドでは「〇〇周年」のアニバーサリーイヤーをメーカーや愛好家グループによって大々的に祝賀する事例が多くなっているようだが、AMWでも偉大な名車たちに想いを馳せつつ、それぞれのモデルヒストリーを辿ることにした。今回は、今を去ること20年前、2003年3月のジュネーヴ・ショーにて世界初公開されたランボルギーニ「ガヤルド」を紹介させていただくことにしよう。
紆余曲折を経てデビューした新時代のスモール・ランボ
ミッドシップで2+2、しかもポルシェ「911」並みの量産を目指すという意欲的な試みに挑戦しながら、結果は失敗に終わってしまった「ウラッコ」。ともにごく少数の製作に終わった、「シルエット」に「ジャルパ」。前世紀のランボルギーニ製エントリーモデルの歴史には、いつもアンラッキーな影がつきまとってきた。
ところが2003年にデビューした「ガヤルド」が、そんな不吉な影をたちまち払拭してしまったことは、今やカーマニアであれば誰もが知る史実。そして、その救世主に至る開発プロジェクトは、市販の15年近くも前から模索されていたようだ。
1987年以降、北米クライスラー・グループの傘下に収まっていたランボルギーニは、この時期「カウンタック」の後継車となる「ディアブロ」の開発を進めていた。しかし、ごく少量しか生産できず、そのうえ高価なディアブロだけでは企業維持は困難と判断。V8フェラーリや、ポルシェ911ターボなどと同じマーケットで競うことのできる、ミドルクラスのベビー・ランボ復活を模索するようになる。
そこでサンタアガタ・ボロネーゼの技術陣は、マルチェロ・ガンディーニのデザインしたシャープなスタイリングのボディにV10エンジンを搭載した、ピッコロ・ディアブロ的試作車「P140」を開発。1990年に発表したものの、このプロジェクトが生産化に移されることはないまま、早々にキャンセルとなった。
その後、1993年にランボルギーニ社の経営権はインドネシアの政府系財閥、メガテック・グループに譲渡。新しい経営陣もまた、ベビー・ランボに望みをかけていた。
そしてトリノのイタルデザイン社をパートナーに選び、その成果として1995年のジュネーヴ・ショーにて参考出品されたのが「カーラ」である。わずか1台のみだが実走可能なプロトティーポも製作され、生産化に至るスケジュールも開始されつつあったというカーラだが、その命運は儚いものだった。1998年にメガテック・グループが事実上の破綻。ランボルギーニ社はフォルクスワーゲン・グループに買収され、アウディの指揮下に入ることになる。
ところがVWグループの総帥にして、かつては名エンジニアとしてポルシェやアウディで活躍したフェルディナント・ピエヒ博士は、かなりアクの強いカーラの有機的なデザインに難色を示したとされている。
そしてディアブロの次期モデルを模索し、カロッツェリア・ザガートにボディデザインを委ねて製作された「L147カント」もろとも、カーラ・コンセプトはキャンセルの憂き目を見てしまうことになったのだ。
ミドルクラスの常識を超えたパフォーマンスと精度を実現
カーラ・プロジェクトの中止により、再びペンディングとなったかに見えた新生スモール・ランボの開発だが、そのプロジェクトは水面下で続行。18世紀スペインの闘牛飼育家であるフランシスコ・ガヤルドにちなんで「ガヤルド」のネーミングが与えられていた。
グループの総帥、ピエヒ博士のお気に召さなかったカーラのスタイリングはゼロから見直され、ランボルギーニ社内チェントロスティーレ(デザインセンター)のマネージャーを務めていたベルギー人スタイリスト、ルク・ドンカーヴォルケに委ねられることになる。
少年時代からクラシック・ランボに憧れ続けてきたというドンカーヴォルケの主導により、傑作カウンタックLP400とその作者ガンディーニへのオマージュのごときウェッジシェイプが強調されたボディは、清潔感と様式美、そして未来感も混在した不思議な魅力を獲得していた。
しかし、ガヤルドにおける最大の新機軸となったのは、親会社となったアウディがアメリカのアルコア社と開発を進めてきた軽量プラットフォーム、いわゆる「ASF」由来のアルミ合金製スペースフレームを採用したことであった。
そして、5L V型10気筒ユニットが発生する500psのパワーは、同時代のフェラーリ「360」シリーズを100psも上まわるもの。シングルクラッチ式6速シーケンシャルMT「eギヤ」がデフォルトとされたのも、きわめて重要な技術的トピックといえるだろう。
また、有能な4WDシステムの効力でトラクション性能にも優れるほか、総アルミ製高剛性シャシーがもたらすハンドリングやロードホールディングも、この時代のスーパーカーの水準を一歩押し上げるものだった。
一方、インテリアにはアウディのパーツも多用されたが、組み付けや仕上げの良さもアウディ基準となる。つまりガヤルドは、たとえアウディのテクノロジーを借りようとも、ミドルクラスの常識を超えたパフォーマンスと、従来のランボルギーニには考えられなかったレベルの品質と精度を獲得した、新時代のスモール・ランボとなったのだ。
大ヒット作となったガヤルドの功罪とは?
さらに、ランボルギーニ製スーパーカーとしてのエキゾティックな魅力に何らのかげりもなかったことは、「ウラカン」の登場によってフェードアウトするまでの10年間の累計生産台数が、じつに1万4022台にのぼったことでも証明された。
当時のランボルギーニのコメントによると、この生産台数はのちにウラカンや「ウルス」に抜かされるまで、歴代ランボルギーニ車では最多だったうえに、同時代の競合スーパーカーのなかでも成功したモデルのひとつとなった。
もしもガヤルドの成功がなければ、2003年にコンセプトカー「アウディ・ル・マン・クワトロ」としてショーデビューしたアウディ「R8」が、生産化に移される可能性も低かったとも言われている。また、ガヤルドでいち早く実績を得たV10エンジンが、のちにR8にもコンバートされるなどのシナジー効果に及ぶこともなかったとも思われる。
さらに、ガヤルドと後継車たるウラカンの大成功によって、アウトモビリ・ランボルギーニ社の懐事情にも余裕ができた。あるいは、フォルクスワーゲン・グループ内における姉妹車の作り分けにもメソッドを確立したことによって、現在のランボルギーニを支えるメガヒット作、ウルスが誕生することになった。
こうして見ると、ガヤルドがランボルギーニ社にもたらした「功」は、あまりにも大きかったと言わざるを得ない。しかし、もしも「罪」の部分があるとすれば、それはアウディとの関係性の深さが、守旧派のランボルギーニ愛好家には少々寂しくも感じられたこと。とくに、いささか「お行儀の悪い」たぐいのファンにとっては、もの足りないとも感じられたくらいしか思いつかないのである。