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日産「プリメーラ」最終形は失敗作だった!? デザインは世界的にも評価されるも販売面で不振だった理由を探ってみました

最終型プリメーラの顔

ボディカラーも特徴的だった3代目プリメーラ

欧州での評価も高く華々しくデビューした初代

日産の初代「プリメーラ」が登場したのは1990年のこと。バブルの影響もあって、世はハードトップやサルーンが主流だったところに、日産らしい骨のあるスポーティなセダンとして登場。当時、日産が力を入れていた「901運動」の成果もあって、作りはよく、日本車離れしたテイストをもっていた。また、イギリスで作られていた5ドアハッチが逆輸入されたことも話題に。実際、ヨーロッパでの評価も高く、欧州カー・オブ・ザ・イヤー2位に輝いている。今回は、そんな偉大な初代をもつプリメーラの最終型を振り返りたい。

さまざまなバリエーションを生んだ2代目

1995年にはフルモデルチェンジして、P10型からP11型へと進化。デザインイメージも含めて、初代から正常進化した形で、人気は継続して高かった。また、イギリス生産の5ドアハッチは「プリメーラUK」の名で販売され、販売チャンネル違いの「カミノ」、当時ブームだったワゴンボディも加わるなど、話題性には事欠かなかったというのは、セダン不振の現代からは想像できないことだろう。往年の技術の日産らしい個性のはっきりとした、出来のよいクルマであったのは確かだ。

デザインにこだわり大きくイメチェンした3代目

そして2001年に3代目のP12型へとスイッチする。デザイン的には大きく変わって、丸みをかなり強調したもので、斬新というか、あまりの変貌ぶりには戸惑いの声すらあったほど。サイズも3ナンバー枠となっている。3代目ではイギリスからの5ドアハッチは国内では販売されず、セダンとワゴンの2本柱での展開のみとなった。だが、当時はまだワゴン需要もあったことからワゴンの人気が高く、日産の基幹ミディアムセダン&ワゴンの位置をがっちりと担当した。

注目されたのはやはりデザインだった。プレスラインに頼るのではなく、面によってボディを構成するという欧州車的な手法を取り入れているのが特徴で、存在感と品の良さ、そしてユニークさも兼ね備えていた。本来アンバランスになりがちな、ニラミの効いたヘッドライトまわりのデザインが全体に対して違和感なくマッチしていて、破綻していないのはさすがだ。

これらが評価されてグッドデザイン賞大賞を受賞し、世界各国のデザインアワードも受賞している。この3代目のデザインについては、当時イギリスにあった欧州のデザインスタジオが担当したもの。ちなみに初代は、辛口のモータージャーナリストとしても活躍した前澤義雄氏がとりまとめを担当していた。

国内外で評価されたものの販売面では苦戦した

最終的な総販売台数は7万6000台ほどで、大ヒットとは言えなかった。原因としては、それまでのスポーツセダンというイメージから一転して、デザインが攻めすぎて万人受けしなかったことが原因と思われ、さらに当時はセダン、そしてワゴン不振が年々深刻になるばかりだった。メカ的には当時まだ大きなクラスにはあまり普及していなかったCVTを「ハイパーCVT」として採用したことも、時代が早すぎたかもしれない。ちなみに、のちに不具合が多発して中古車市場からも急速に姿を消したのは残念だった。

メカニズムは別にして、デザインレベルが一気に上った令和の世なら、違和感なく受け入れられたルックスのような気がする。セダン不振というのなら、プリメーラSUVとしてアレンジできるレベルの高いデザインだっただけに、世の中を先取りしすぎたクルマだったと言えるだろう。もちろんそのままでなくていいので、3代目プリメーラがもっていた時代の先取り性とエッセンス、質のよさを受け継いだデザインのクルマがまた登場すると、大きな話題になるのは間違いないだろう。

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