チューナーの心に残る厳選の1台を語る【ガレージ・ザウルス 林 徳利代表】
負かすことを目標にしていたが、いつしか魅せられてしまった。それがGT-Rという存在だ。やればやっただけ応えてくれて、知名度までも広めたくれた。そう語るのは、今回の物語の主人公、「ガレージ・ザウルス」の林 徳利代表だ。
(初出:GT-R Magazine157号)
店主とお客という関係ではなくかけがえのない「仲間」として接する
チューニングが大好きで、GT-R愛ならば誰にも負けないと自負する男。本名の「林 徳利」よりも、愛称である「とっくり」と言ったほうが断然通りがいい。それが『ガレージ・ザウルス』の総帥だ。
代表とか社長と呼ばれることが何よりも嫌いで、常にユーザー目線を忘れない。自らがGT-Rを駆って、気になるところに手を入れる。それが基本スタイルだ。
「自分ではチューナーというよりも、一人のGT-R好きだと思っています。大好きな愛車を理想的に仕立てたいという熱い想いが常に根底にあるんです。創意工夫を駆使して、それを実現させたノウハウを仲間のクルマにもフィードバックする。それを貫いています」
ザウルスを頼りにやってくるユーザーは、単なるお客としては捉えていない。かけがえのない仲間として認識しているのだ。だからお世辞や社交辞令は使わない。厳格さのなかに愛情を含んだ本音で接している。良いことも悪いことも包み隠さずに伝えて、どうするかを一緒に悩み、そして考える。それがとっくり流儀だ。
頑固な一面を持ち合わせているので最初はとっつきにくいが、その段階をクリアして溶け込んでしまえばしめたもの。無理難題にも応え、徹底的に面倒を見てくれる。義理人情を重んじる人間だ。
自転車で毎日通学したことでチューニングに巡り合えた
チューニングの原点とも言えるのが自転車だという。今と違って当時は極端に少数派だった中学受験に挑戦して見事に合格。自宅からだいぶ離れた私立中学校へは自転車で通学していた。最初はごく一般的な「ママチャリ」で通っていたものの、ロードレーサーで通ってくる友達に感化され、自分も本格的なロードに乗り替えた。
これがすこぶる速い。今までが軽自動車だとすれば、こちらはスポーツカーのような俊敏さだ。そのため毎日の通学が待ち遠しくなった。前を走る自転車は抜かなければならない。赤信号で並んだタクシーよりも早くスタートしなければならない。そんな課題を自分に与えて楽しんだ。
クラブチームに所属して競技会にも出場。自転車の手入れも自分の役割だから、先輩の作業を見よう見まねで身に付ける。そこで整備、調律の重要性を目の当たりにした。ベアリングの締付け具合やスポークの組み方で走りは一変する。自転車はヒューマンパワーだから違いはひと踏みでわかってしまう。自走してストイックにチューニングを詰めていく行為は、このときから続いている。
GT-Rを手にして想像以上の速さに感動
家庭の事情で大学には進学せず自動車パーツの量販店に就職したが、2年足らずでチューニングショップに転職した。そこで4年半修行して24歳で独立。ガレージ・ザウルスを立ち上げた。当初は打倒GT-Rを目標に邁進した。パルサーGTI-Rをベースに手を入れるものの、パワーは上がるがことごとくトランスミッションが音を上げた。
雑誌で連載したSW20型トヨタMR2のチューニングは、富士スピードウェイのゼロヨン大会で自らがドライブして痛恨のスピン。雨のストレートでクラッシュさせてしまう。途方に暮れていると、リコーレーシングのR32が全開で通り過ぎた。
そんな出来事があった翌週に、「やっぱりGT-Rで頭を取ろう」と、ディーラーに行ってワインレッドのBNR32をフルローンで注文した。それが平成3(1991)年9月。翌月には納車されて、まずはブーストアップでクルマの様子を見る。すぐに素性の良さを確認し、いきなりTD08-29Dを使ったシングルターボ仕様を作った。
想像以上の速さに満足し、すかさずTD05ツインに変更。このころから自分仕様にこだわっていた。1992年の12月に筑波で行われたトラスト主催の走行会に意気揚々と参加したが、そこでFC3S RX-7と過激に競り合い、第1コーナーで敢えなくクラッシュしてしまう。
その修理をきっかけにピンクに全塗装し、エンジンもトラストの試作パーツを使って2.7Lに排気量アップを試みる。同時にターボもTD06-20Gにサイズアップしたのだが、じつは1993年12月に開催されるRRCのドラッグレースに参戦するために大幅なテコ入れも行っていたのだ。
初参戦のドラッグレースでまさかの展開に
ドラッグレース当日。ツリーを使ったスタートも初めて、ドラッグレース用スリックタイヤも初めてながら、緊張感よりもやる気が勝っていた。やれることはすべて行っているので上位に食い込める自信があったのだ。若いから何も怖くない。それをRRCのトップランカーであるヴェイルサイドの横幕宏尚代表に話すと「林くん、RRCは初めてなんでしょう。いきなりは無理、そんなに甘くない。もし自分が負けたらRRCを辞めるよ」と軽くあしらわれた。
いざ走ってみると事態は急転。リザルトはヴェイルサイドが4位でザウルスが3位になったのだ。レースが終わり横幕代表に挨拶に行くと、
「来年からは自分の分も頼む。何がって? 言ったでしょう、林くんに負けたらRRCを辞めるって」
衝撃的なことを笑顔で打ち明けられる。横幕代表はこのレースを最後に潔くRRCから身を退いた。
デビュー戦で10秒3をマークして3位となった成績はビキナーズラックだとしても、相応の実力がなければ決してなし得ない。それは参戦していた誰もが気付いていたはずだ。ここからザウルスの快進撃が始まる。
HKSワークスの参戦を聞き奮起する
次のRRC開催は1994年5月。それまでに軽量化して9秒台にどこまで近付けるかを目標にしていた。そんなときにHKSがワークスとしてグループAのR32をベースにした車両で参戦するという情報を得た。しかもドライバーはドラックの名手、川崎哲哉氏だ。
それを聞いて俄然やる気が漲った。無様な負け方だけはしたくない。すぐにエンジンをバラしてトラストの2.7Lキットを使い、ワンオフのチタンコンロッドを組み合わせる。それをベースにザウルスのノウハウを集結してヘッドを仕立てていった。制御は純正のコンピュータで行って、インジェクターはメインとサブを合わせた12本のすべてが550ccを採用した。トランスミッションはトラスト6スピードで、クスコのドラッグデフを装備し、クラッチはOSトリプル。マフラーはザウルスオリジナルの90φだ。冷却系はトラストでオーリンズのサスペンションをセットしていた。
問題はターボだ。それまでのTD06-20GからTD06-25Gにサイズアップしたいとトラストに打診した。当時、開発を担当していた平田清海氏には「とても回しきれない。明らかに無駄になる」と突っぱねられた。「でも、新しいことをしないと勝てない」と譲らない。そんな押し問答を見ていた統括役の大川光一氏が「駄目だったとしてもウチのノウハウになるのだから」と口添えしてくれた。それでなんとか25Gと、スペアとして20Gを提供された。
ますます本気になった。店に泊まり込んでクルマ作りに励む。レース当日、最終的なセッティングは会場近くの道で行った。できる限り当日のコンディションに合わせたかったのと、この場所が富士スピードウェイと同じ標高だからだ。日本初の25Gツイン仕様は時間切れでローブーストの1.4kg/cm2までしか煮詰められなかったが手応えは十分。
予選は本命のHKSに次ぐ2番手を狙う。ラダーが分かれて最終決勝での勝負になるからだ。まずはブーストコントローラーを使わないでどこまでいけるかを探る。オフでのブーストは1.2kg/cm2だ。1回目の予選でHKSが9秒4でザウルスが10秒0。スタートでもう少し詰められそうなので2回目の予選もオフのままで行った。HKSは9秒2でザウルスは9秒8。これで思惑通りザウルスはHKSに次ぐ予選2位で通過できた。しかもこのタイムならHKS以外には負けないと確信したので、ブーストはずっと1.2kg/cm2のままで順調に駒を進めていった。
初のハイブーストモードが奇跡の大逆転を引き起こす
そしていよいよ最終決戦。隣のラダーはもちろんHKSが勝ち進んでいる。本番直前に遂にブーストコントローラーをオン。ハイブーストにしてダイヤルをフルに捻った。誰もブーストがどこまで上がるかわからない。なぜならハイブーストモードは使ったことがないからだ。それでも後悔はしたくない。
ストリートゼロヨンで多くのギャラリーの前を駆け抜けてきたので気持ちは少しも張り詰めていない。むしろ高揚感でいっぱいだ。全神経を集中させるリアクションもまずまずでいつものスタートができ、しかもハイブーストモードはとてつもなく速かった。前方にHKSはいない。それでさらに調子が出て会心のシフトアップ。そのままゴールを通過した。結果はHKSが9秒6で、ザウルスがまさかの9秒4。RRC2戦目で優勝という快挙を成し遂げた。
このときのR32が通称「ピンクドラゴン」。「とっくり」の名を全国区へと広めたクルマだ。
(この記事は2021年2月1日発売のGT-R Magazine 157号に掲載した記事を元に再編集しています)