政府の国民車構想が発令 コンパクトカー開発に時代が方向転換
国産車初の風洞実験を行うなど、飛行機作りの技術を導入した三菱500。それでも軽自動車ユーザーも視野に入れた価格帯のコンパクトカーとして登場している。高い走行性能を実現するため、軽量ボディにパワフルなエンジンを組み合わせ海外のレースではデビューウインを獲得したのである。
ブランドの威信をかけたコンパクトカー
三菱自動車工業が誕生したのは、高度経済成長期の1970(昭和45)年4月だ。が、三菱は大正時代から自動車事業を展開し、戦前の1937年には早くも4輪駆動の乗用車、PX33を生み出している。戦後は水島機器製作所でオート3輪、京都製作所ではエンジン、名古屋製作所がスクーターやバスボディと、それぞれを組み立てるかたわら、トヨタと日産、いすゞから頼まれて乗用車ボディを架装する業務も行っていた。
新三菱重工業を名乗ってからは、戦後初となる三菱ブランドの純国産車の開発に乗り出している。三菱の威信をかけた高級車を、という声が大きかった。だが、討論の末にコンパクトカーを開発することに決定する。
方針を変えさせたのは、政府が打ち出した国民車育成要綱案だ。この国民車構想を意識してコンパクトカーの開発に取りかかった。
開発リーダーに抜擢されたのは、戦時中に世界初のロケット戦闘機、秋水の開発に携わっ持田勇吉である。航空機出身だったこともあり、パッケージングに強いこだわりを見せ、西ドイツの超小型車であるゴッゴモビルとハインケル・カビーネを購入して徹底的に研究。三菱500の駆動方式はフィアット500を手本に、RR方式を選んでいる。
エンジンは軽自動車なら瞬発力の鋭い2サイクルの2気筒がいい。だが、軽自動車より上のクラスの乗用車を狙ったので、快適性が高く、混合油の補給を必要としない空冷の4サイクル直列2気筒を選んでいる。
市販に向けての開発は、1957年から始まった。エクステリアは5分の1スケールのクレイモデルを作り、日本の自動車メーカーとしては初めて風洞実験も行っている。航空機のエンジニアらしいやり方だ。本格的な走行テストを開始するのは1958年夏からになった。ボディサイズは排気量が360cc以下だった当時の軽自動車より少しだけ大きい。
採用したのは丸みを帯びた愛らしいデザインだ。リアに短いノッチを付け、軽自動車との違いを明らかにしている。ドアはスバル360と同じように後ろヒンジの前開き式。大きく開くから乗り降りしやすい。
デビューの舞台は、1959年10月に開催された第6回全日本自動車ショーとなった。だが、最後の仕上げに取りかかっていた9月26日、名古屋地方を伊勢湾台風が襲ったのである。名古屋製作所も冠水し、甚大な被害をこうむった。ショーに展示する試作車に加え、パーツまでもが水に浸かってしまったのだ。
だが、開発陣は日に夜をついで試作車をきれいに仕上げ、何とかショーに間に合わせている。その甲斐あって三菱ブースに詰めかけたギャラリーは、三菱500を羨望の眼差しで見上げた。また、識者やライバルメーカーのエンジニアも絶賛する。
21世紀の三菱車に影響を与えたフロントマスク
会場で配ったキャンペーン用のカタログは引っ張りダコの人気だった。試作車の評判がよかったことにも勇気づけられた開発陣と首脳陣は、ショー期間中から量産に向けての作業に乗り出した。また、驚いたことに、決まっていなかったフロントグリルのデザインを公募したのだ。この大胆な戦略も多くの人の度肝を抜いた。選ばれたグリルデザインは1960年2月に新聞紙上で発表され、量産モデルに採用された。
ちなみに、2001年に三菱のチーフデザイナーとなったオリビエ・ブーレーは、三菱500のフロントマスクに感銘を受け、2003年登場のランサーとランサー・エボリューションVIII、コルトに採用する。これが「ブーレー顔」と言われたフロントマスクだ。この個性的な顔の原点は三菱500にあったわけだ。
三菱の期待の新星、三菱500はモーターショーから半年後の1960年4月に正式発表された。キャッチフレーズは「あなたの夢をかなえる小型乗用車」だ。最初は1グレードだけで、販売価格は39万円だった。予想より安かったが、それでも当時は高嶺の花である。
ボディは、航空機づくりの技術を駆使して設計された軽量かつ強靭なモノコック構造だ。初期モデルはセンターピラーにウインカーが付き、前側のドアガラスの前に三角窓がない。また、リアランプは中央にひとつだけで、ナンバープレートの上に置かれ、ナンバーを照らすランプを兼ねていた。左側のリアフェンダーには導風用のエアインテークが装備されている。この時代、フェンダーミラー装着は義務化でなかったのは驚きだ。
メカニズムは、凝ったレイアウトのサスペンションに目がいく。当時としては珍しい4輪独立懸架で、ソフトな乗り味が魅力だった。フロントはキングピン固定の独創的なトレーリング・ロッカーアーム、リアはトレーリングアームとし、コイルスプリングを組み合わせている。コストのかかった鋳造品を用い、フロントはデュポネ式、リアはU字ジョイントをふたつも使っていた。ステアリングギアは、軽くてシャープな切れ味のラック&ピニオン式だ。
エンジンも、コンパクトカーは2サイクルエンジンが全盛だった時代に4サイクル2気筒OHVを選んでいる。空冷方式としたのは、軽量設計にこだわったからだ。ボアが64.0mm、ストロークは70.0mmのロングストローク設計で、総排気量は493ccだった。半球形燃焼室を備え、効率を追求したNE19A型エンジンは、最高出力21ps/5000rpm、最大トルク3.4kgm/3400rpmを発生する。
排気量を拡大したモデルの投入で走りの実力を向上
トランスミッションは、初期型スバル360と同じ、個性的な横H型シフトパターンの3速MTだ。シフトレバーだけでなくクラッチも軽いので、リズミカルに変速を楽しめた。ローギアはノンシンクロで、2速と3速ギアはシンクロ機構を備えている。車両重量は490kgと軽かったため、最高速度は90km/hに達し、後ろから押される感覚の加速フィールは気持ちよかった。
前評判がよかった三菱500が狙ったのは、軽自動車に目を向けている人やスクーターに乗っているライダーたちである。だが、予想に反して販売は伸び悩んだ。そこで10月に快適装備を充実させ、三角窓を取り去った「デラックス」を投入している。そして1961年8月に「スーパーデラックス」を仲間に加え、さらに余裕ある走りを実現した。
最大の違いはエンジンだ。排気量を594ccに拡大したNE35A型直列2気筒OHVを搭載し、最高出力は25ps/4800rpmに、最大トルクも4.2kgm/3400rpmに増強している。最高速度は100km/hまで引き上げられた。
また、ユーザーの声に応えて乗車定員を4名から5名に増やしている。ヒーターやデフロスターが装備されたのも大きなニュースだ。外観では1本ワイパーが2本になり、拭き取り面積を増やした。また、センターピラーにあったウインカーランプがフロントのヘッドライト下に移されている。リアランプもふたつになり、左右に並べられた。
三菱500が輝きを放ったのは、意外にもモータースポーツの世界である。1962年11月、マカオグランプリに3台の三菱500を送り出し、初陣ながら3台とも完走。フィアット500を破ってクラス優勝も成し遂げた。また、1963年の第1回日本グランプリにも挑んでいる。
ハンドリングのよさを武器にレースでは大活躍した。だが、走りの魅力が伝わらなかったのか、販売面では苦戦を強いられている。三菱500は2年余りで第一線を退き、1967年7月には後継の「コルト600」に主役の座を譲った。三菱エンジニアの良心が生んだ影の名車が三菱500だ。その先見性と魅力は、21世紀の今になるとよくわかる。
三菱500スーパーデラックス(A11型)
●年式:1961
●全長×全幅×全高:3160mm×1390mm×1380mm
●ホイールベース:2065mm
●車両重量:530kg
●エンジン:NE35A型 空冷直列2気筒OHV
●総排気量:594cc
●最高出力:25ps/4800rpm
●最大トルク:4.2kgm/3400rpm
●変速機:横H型3速MT
●サスペンション(前/後):トレーリングロッカーアーム/トレーリングアーム
●ブレーキ(前/後):リーディングトレーリング/リーディングトレーリング
●タイヤ:5.20-12-2PR