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昭和の「1000ドルカー」トヨタ「パブリカ」はなぜ売れた? バリエーション違いで人気に火がついた!【国産名車グラフィティ】

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TEXT: 片岡英明  PHOTO: 木村博道/自動車工業会/AUTO MESSE WEB編集部

軽量コンパクトなボディに水平対向エンジン搭載

日本経済が高度成長期を迎えマイカーが現実的なものへと変化していった。そのようなときにトヨタは、同社では初となる国民車の開発を開始。当初はキャビンスペースを広くできる前輪駆動であったが、コストや信頼性を優先して後輪駆動へ。そしてパブリック=大衆のためのクルマが1961年6月に登場した。

大人4人が乗れる国民車の新ベンチマーク

1960年代は、日本人の生活が大きく変化した10年だった。洗濯機や冷蔵庫、テレビといった家電製品が一般の家庭に普及し、自動車の販売も飛躍的に伸びた。

遠からず日本にもマイカー時代が到来すると考えたトヨタは、1950年代後半にスモールサイズのファミリーカーの開発に乗り出した。通産省(現・経済産業省)が打ち出した国民車構想を受けて作った1A1型の試作車は、キャビンを広く取るために前輪駆動を採用。だが、等速ジョイントに技術的な不安があり、生産コストもかさむ。耐久性も未知数だったため計画は白紙に戻された。

新たに選んだのは後輪駆動だ。キャビンスペースは大きくできないが、信頼性は高く、操縦性も素直だから扱いやすい。エンジンは最初からコンパクトな空冷の水平対向2気筒を開発している。室内空間を稼ぐために、エンジンとトランスミッションは前輪より前に搭載した。

この試作車は時間をかけて耐久性と信頼性を磨き、延べ100万km以上テスト走行したと伝えられている。ベールを脱ぐのは1960年秋の第7回全日本自動車ショーだ。

「大衆車700」を名乗って展示され、正式車名は公募。当選者には新型車と賞金100万円を進呈すると告知したところ100万通もの応募があったという。決まったネーミングは、大衆を意味するパブリックと自動車のカーを組み合わせた造語の「PUBLICA」となった。

日本の国民車を目指したパブリカは、翌1961年6月に正式発売されている。スタイリングはプロトタイプに限りなく近い。プロポーションは、上級のコロナなどと同じようにノッチバックにトランクのセダンスタイル。だが、オーナーカーを意識して2ドアセダンだけの設定とした。

フェンダーにはPUBLICAのエンブレムが誇らしげに装着されている。全体的にシンプルな装いだが、ボディサイドにはリヤフェンダー手前で跳ね上がるキャラクターラインを入れ、躍動感を演出した。

ヘッドライトは、ライバル他車と同じように丸型2灯式。空冷エンジンを積んでいるが、見栄えをよくするために格子状のフロントグリルを採用した。リヤは流行のテールフィン風にデザイン処理し、後端には小さい縦長のコンビネーションランプを組み込んでいる。

1グレードだけの設定で、販売価格は軽自動車並みの38万9000円。広告に使ったキャッチフレーズは「1000ドルカー」である。当時は1ドルが360円の時代だったので、そう呼んだ。前評判は高く、トヨタとしては売れると期待したが、販売は伸び悩んだ。そこでバリエーションを増やす販売戦略を取ることに変更。

翌1962年、ライトバンとATのトヨグライド仕様を設定。1963年6月にはサイドモールやラジオ、ヒーター、ミラーなどを標準装備したデラックスを投入。また、高性能なコンバーチブルも発売した。この戦略が成功し、ヒット商品になった。

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