不便で危険、だからこそ乗る
よくクルマのインプレッション記事で、「五感が研ぎ澄まされる」的な表現で語られることがあるが、五感が研ぎ澄まされるときは、人間本来の本能が呼び醒まされているとき──そこに危険であることのシグナルが潜んでいることを、無意識のうちにでも察知しようとしているときにほかならない。クルマに至っては「スピード」がその最たるもので、ボロすぎるクルマに乗っても「いつ壊れるか?」を察知するために五感はフル稼働する。だから、ラグジュアリーなクルマを運転する際は、危機を察知しようとする五感は身を潜め、逆に安心感から思念の方へと集中することができる。
今回試乗しているのは170Rなので、勢い五感をフル稼働しながらのドライビングとなる。
低い着座位置、風を肌で感じることができる開放感、すべての操作が機械的につながっているということなど、ケータハムが極めてプリミティブなクルマであることはこれまでさんざん語り尽くされてきた。もちろん、不便であるということも。
クルマで不便を感じるのは、雨風をしのげないことがその最たるものに違いない。クルマとは、人間の身体を守るプライベートな──しかも移動できる空間なのだ。さらにその空間が大きくなると個人住宅になることは、前述のとおりだ。クルマをどう定義するかは意見の分かれるところだが、ケータハムに関しては外界と遮断した安心できる空間は望むことは出来ないことは明らかだ。対極にあるのは、部屋をクルマに取り込んだようなキャンピングカーともいえるだろう。
どうして現在もケータハムに需要があるのだろうか。ルーツは、1957年のロンドショーでワールドプレミアされたロータス7である。当然ながら搭載されているエンジンなどは異なれど、基本設計は同じだ。いうなれば、技術的にはもはやシーラカンスといっていい。
そんな170Rに夢中になって、午前2時過ぎの青山通りを嬉々として走らせている自分がいる。きっと、さまざまなクルマを運転した経験のある人ほど、170Rには夢中になるに違いない。純粋にドライブすることを満喫したいのであれば、170Rほどぴったりのクルマはそうそうないと断言できる。衒示的欲求から開放された真の目利きにとって、新車で購入できる170Rはまさにぴったりの1台だ。
そもそも最も贅沢なものというのは、ひとつの目的のために特化したギアである。普段の足にも使える、買い物にも子供のお迎えにも、さらにはアウトドアにだって使えて、ドライビングプレジャーも備えているというマルチなクルマは、本来的にはラグジュアリーなものではない。嗜好品ではなく日用品となるから、なおさらである。ケータハム、しかも170Rはドライビングプレジャーを楽しむためだけの目的で、現在に残っている稀有なクルマ。見せびらかすための衒示的消費にはつながらないクルマだ。
170Rで過酷な旅に出てみたい
170Rを深夜のドライブしながら、ふとこのクルマで長距離の旅に出たら面白いのではないかと思いついた。それもBD−1で通し打ちをした四国お遍路の旅に、である。荷物を乗せるスペースなんてほんの少しだけれども、助手席も使えば三脚や一眼レフカメラなど、折りたたみ自転車で諦めたものを持っていけそうだ。いつか、スズキ ジムニーでテン泊しながら旅したいと計画していたことがあったが、170Rは奇しくもジムニーのターボエンジンを搭載している。
ところで、四国お遍路を回っているクルマの定番は、軽バンのようだった。しかし、ある寺でクルマ好きの住職と会話したとき、ハコスカで回った人がいたことを聞いた。便利ではないクルマだからこそ、旅が冒険になる。旅はハードルを上げると、途端に冒険に変わるのだ。それは登山にも言えて、単独登頂、冬期登頂、酸素ボンベなし、新しい危険なルートで……と、人はだれもやっていないものにチャレンジしたがるものなのだ。
170Rだと、折りたたみ自転車で辿った道が、まったく違った景色となって目に映ることが容易に想像できる。苦労して登りきった数々の峠や山道のすべてが、楽しいヒルクライムに変貌する。きっとお遍路中に会話を交わす人たちもぜんぜん異なる種類の人たちになるだろう。ひとり用のテントくらいなら余裕で積載できそうなので、テン泊しながらのお遍路もできそうだ。考えただけでワクワクしてきた。旅は計画しているときがじつはもっとも楽しいときでもあるのだ。
R170の車両価格は698万5000円(消費税込・以下同)。軽自動車の登録となるので、維持費は抑えられる。ただしその時は、フルウインドスクリーンとソフトトップにドアをオプションで。すると前回のGRスープラの731万3000円とほぼ同額となる。どっちを選ぶかと問われれば……、現在の気分だと170Rでキマリ。日常を冒険に変えてくれるクルマ、それがケータハム170Rなのだから。