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「ミウラ」とのたった15分のランデヴー。フェラーリにはなかった瞬発力を当時のランボルギーニはたしかに持っていた【クルマ昔噺】

ミウラの初ドライブは「凄い」の一言に尽きた

恐ろしく速かったミウラの思い出

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載がスタート。第1回目はスーパーカー世代はもちろん、50代後半のおじさんにはグサリと刺さるランボルギーニ「ミウラ」との出会いを振り返ってもらいました。

赤いボディのミウラに心を奪われた

ランボルギーニ ミウラとの出会いは衝撃的だった。最初の出会いは僕のいた会社にやってきたオーナーのクルマである。真紅と呼ぶに相応しい見事にピカピカの赤いミウラだった。そのオーナーは、浮谷光次郎氏。あの伝説のレーシングドライバー、浮谷東次郎の父上である。赤いそのボディが会社に現れた時、心奪われ、眼を皿のようにして眺めたのを覚えている。

それから少したった1974年頃、会社は中古だがミウラをドイツから輸入した。クルマが港についたと連絡があると、横浜の保税倉庫に3種の神器を持って行く。その3種の神器とは、携行缶に入れたガソリン(当時はお咎めなしだった)、バッテリー、それにジャンプコードである。多くの場合、長い船旅の後でバッテリーが弱っているからジャンプコードは必須。それに繋ぐバッテリーも必須。そしてガソリンだって入っていない場合が多い。

ミウラがやってきた時は、同時にかなりの数のクルマを持ってくる必要があって、さすがにミウラに乗せては貰えず、僕が担当したのはアルファ ロメオ ジュニアザガートだった。件のミウラは工場長が調子を見ながら第3京浜を等々力に向けて走らせた。

白いボディのそれは素のミウラ。即ちSでもSVでもない。それでも当時は他のクルマと比べてかなり高価で、確か850万円の正札を付けたと記憶している。ド新品のフェラーリ365GTC-4が1000万円だったから、中古ミウラが如何に高かったかわかる。このクルマが最後にどこで売られたかは確かな記憶が無いが、一度試乗に来たお客さんがいた。

後にも先にもランボルギーニではミウラほど興奮するクルマはなかった

その人は大阪の上客さんで色々なクルマを買ってくれたから、信用貸しでクルマを預けた。どれくらいたったかはわからないがそのお客さんから連絡があって、クルマが止まってしまったので取りに来てほしい由。そこで僕の出番となった。半分はミウラに乗れるという高揚感。そして半分はどんなトラブルを抱えているかという不安だったが、乗りたい方が勝っていた。

止まっていたのはかつての東横線渋谷駅のガード下を出たところ。国道246号線上である。そのお客さんによればオーバーヒートしたのでクルマを止めたそうで、あとは乗って行ってくれという御達し。早速エンジンをかけると、水温は適温に戻っていたのでそのまま走りだした。

しかし、快適なのは僅か数分。信号で1回とまったらすでに水温は100度を超えていた。仕方なく大坂上(現在の道玄坂上)でクルマを止めてリアカウルを開ける。すると、何とリザーバータンクの下から水が漏れているではないか! 要するにラジエターの水がかなり漏洩したようだ。水を補給するしかない。

そこで、目の前にあった中将湯で有名だった津村順天堂(今の株式会社バスクリン)で水を分けてくれるように頼んだ。当時は非常に珍しいクルマだったこともあって、社員の人たちも出てきた。ヤカンで水を入れるのだが果たしてどの程度入ることやら。漏れを放置してそのまま会社までたどり着くやら不安が大きかったが、もう走るしかない。

驚くほどの瞬発力を持つフェラーリは当時存在しなかった

だから、飛ばしに飛ばした。渋谷から等々力のショールームまで、空いていれば当時は15分程度で行きつく。そのくらいなら持つだろうという勘定だった。もう時効だから話すが、法定速度をかなり超過していたと思う。当時の246はさほど混んでおらず、いまでは考えられないほど空いていた時代の話だ。信号で止まった時、ふと横を見ると、ミニスカートのお嬢さんが立っていて、そのスカートから上が見えなかった。それほどミウラの着座位置が低かったのである。

1速で全開にするとメーターは90km/h近くまで伸びたと記憶する。恐ろしく速いと思った。フェラーリにも散々乗ったが、その瞬発力を持つフェラーリは当時存在しなかった。明らかにランボルギーニの方が速かったと思う。まあ、よくぞ事故も起こさず、無事にショールームまで辿りついたと思うが、確かきっちり15分ほどだった。これがミウラの初ドライブだった。ただ、すげぇ! それだけである。それにしてもリザーバータンクの小ささには参った。ショールームについた時、水温計はほぼ130度に達していた。内圧が上がるので100度を超えてもこのあたりまでは大丈夫というのが定説だった。あと少し距離が長かったらアウトだった。

* * *

残念ながらその後ミウラを触る機会はなく、モータージャーナリストになった後もただ眺めるだけで、実際に乗る機会はなかった。僕が乗った素のミウラは走行距離にして数千キロのモデル。新車とは言わないが、限りなく新車に近いモデルである。ランボルギーニにはこれ以外にも多くのモデルに乗ったが、ミウラほど興奮するモデルはなかった。

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