最初のクルマは1977年式117クーペ1800XCの新車だった
SNSの♯(ハッシュタグ)風にいうと、いすゞ「117クーペ」を語るときに外せないのは「ハンドメイド」「G・ジウジアーロ」「イタリア」「リアが板バネ」「フローリアンがベース」といったワードだろうか。筆者が自分で乗っていた117クーペは、厳密にいうと1977年式の1800XC(PA95S・HS)の5速MT車で、世代的には量産型の中~後期型に分類される、角目になる半年前に納車されたクルマだった。が、人に「どんなクルマに乗ってきたの?」と訊かれた場合、おおまかに「幼少の頃、モーターショーで見て以来、免許を取ったら最初に乗るクルマと決めてたいすゞ117クーペに最初に乗りました」と答えている。
ジウジアーロによる生粋のイタリアン・デザイン
もちろん初期のハンドメイドの117クーペは、一般的な量産車と異次元の価値、ステキさだった。だが、車名を欧文で書く時に「117Coupé」とeの上にアクサン・テギュを付ける程度にはこだわりをもつ筆者ではあるが、世代を問わず(以前は「角目」にやや抵抗があったが)117クーペは総じてひとまとめに117クーペである、と思う。
7年13万km乗って次のクルマに乗り換えたのはもう40年近く前の話だが、いまだに117クーペのスタイルは「絶世のクーペ」といえるものだったと思う。
なにしろ初心者マークを付けて乗り始めてから、当初は自宅の塀に擦ったり電柱にバンパーをぶつけたりして、その都度預けた鈑金屋のオヤジに「このクルマの修理は大変なんだ」と言われたもの。自分でワックスをかけているとわかる、まさしく手で撫でてみるとじつに艶めかしくでデリケートな曲面でできた117クーペのスタイルは、同世代の日本車とは明らかに「文脈」が違った。
もちろんそれはジウジアーロによる生粋のイタリアン・デザインだからで、アルファ ロメオ、フィアット、イゾ、フォードといった1960年代の彼の手がけた量産・試作車との血のつながりを感じさせた。
なお117クーペの初出は、1966年のジュネーブショー。「ギア-いすゞ117スポルト」の名で登場し、同年イタリアのアラシアーノ・コンクール・ド・エレガンスで名誉大賞を受賞している。さらに1966年、1967年の東京モーターショーでプロトタイプの2号車、3号車が出品され、翌1968年に「117クーペ」として正式に発表・発売となった。
ハンドメイドも量産型も、まさに高級スポーツクーペだった
ところで最も初期のハンドメイド車(1968~72年)と1973年からの量産型とでは、デザインの大枠はほぼ共通ながら、生産性を前提に構造が格段に合理化されて、見た目のディテールにも違いがあった。ひと目で判るのは前後バンパー、フェンダーミラー(量産型にはハウジングが丸みを帯びたものと最終のやや角張ったものとがあった)、テールランプなどの形状だ。
さらにフロントグリル内部のデザインの違い、ボディ側面のターンランプ、リフレクターの有無などのほか、117クーペの特徴だったステンレスのルーフピラー部も、ハンドメイド車はじつはピラーの半分ほどがヘアライン仕上げだが、量産型は全面がポリッシュのステンレスになっていた。ホイールサイズがハンドメイド時代は14インチ、量産型では13インチだったのも違いだ。
三角窓は最後まであったが、開閉方式は初期はダイヤル式、後年は小さなロックボタンを押しながらレバーを押し上げる方式に。インテリアも、ハンドメイド時代はウッドパネルや後席独立のリクライニングシートなど贅沢なGTカーの雰囲気プンプンだった。
量産型ではそうした「らしさ」は残しつつ、コンソールなどのデザインが新しいものになった。ただしこの時代は前席シートベルトのキャッチは非自立式で、バックルをコンソールに挿して収めておく方式だったり、エアコンは助手席側に吊り下げ式だったり、駐車ブレーキがインパネ下に手を伸ばして操作するいわゆるステッキ式だったりと、同世代の国産車にくらべ古風な部分が残っていた。
ヘッドライトのスイッチもインパネにあり、ノブを1段(スモール)、2段(メイン)と引っ張ることで点灯させるものだった。センターコンソールが高く、短めのシフトレバーを小さなストロークで操作する感覚も小気味よかった。
それとピラー類の細さ、グラスエリアの広さ、ウエストラインの低さによる視界の明るさも独特だった。後席も量産型では左右の独立とリクライニングは省略されたが、当時の国産2ドア車では珍しくヘッドレスト(ピロー)が備わる+2シーター(乗車定員は4名だった)の設えになっていて、まさに高級スポーツクーペの雰囲気をたたえていた。