レースカーのノウハウは市販車へ惜しみなく投入される
メルセデス・ベンツは2023年、自動車の発明メーカーとして1886年創業以来137年となり、さらなる発展を遂げている。AMWでは「メルセデス・ベンツの年輪」と題し、「メルセデス・ベンツの歴史」、「メルセデス・ベンツグループ社の概要」、「メルセデス・ベンツのレーシングカー」、「メルセデス・ベンツのプロダクションモデル」、「メルセデス・ベンツの車造りと安全性」に分けて紹介。今回は1939年までのレーシングカーについて解説する。
1939年までの主なメルセデス・ベンツのレーシングカーとは
メルセデス・ベンツの年輪は、とくにモータースポーツを抜きにして語ることは不可能である。つまり、メルセデス・ベンツは長年モータースポーツ活動で磨き上げた革新技術をプロダクションモデルに導入しているからである。これから紹介するレーシングカーは、ダイムラー社/ベンツ社、そして1926年合併後のダイムラー・ベンツ社が製作した主なレーシングカーである。
【1894年】世界初のパリ~ルーアン間レースでダイムラー・エンジン車が1~4位を独占
フランス・パリ~ルーアン間の126kmを走る世界初の自動車レースで、ダイムラー社製V型2気筒ガソリンエンジンを搭載したプジョーとパナール・ルヴァソールが1~4位を独占した。
当時、蒸気自動車や電気自動車が多数参加したが、ガソリン自動車の優秀性と可能性が高く評価された。ゴールしたガソリン自動車は10台のうち9台がダイムラー社製のエンジンで、1台がベンツ社製のエンジン(5位)。ガソリン自動車は確かにドイツ人が発明したが、それを積極的に使ってモータリーゼーションの発展に意欲を示したのはフランス人で、翌1895年、世界初のフランス自動車クラブが誕生した。
【1901年】最初のメルセデス35PSレーシングカー
ダイムラー社のパウル・ダイムラー(ゴットリーブ・ダイムラーの長男)が天才技術者ヴィルヘルム・マイバッハの協力を得て、またエミール・イエリネックの経済援助に支えられて完成した最初の「メルセデス35PS」。
改良につぐ改良を重ね、スタイリングや機構も「馬なし馬車」から脱皮したダイムラー社初の本格的な自動車であり、メルセデスの名を持つレーシングカーが誕生した。ウィーク・オブ・ニースに初登場しヴィルヘルム・ヴェルナーのドライビングで初優勝。このレースでメルセデス車はデビューと同時に一大センセーションを巻き起こした。1902年、メルセデスはダイムラー製品の特許として登録されている。
【1911年】稲妻の名を冠したブリッツェン・ベンツ
「ブリッツェン・ベンツ」のブリッツェン(Blitzen)とはドイツ語で「稲妻」の意味。1911年、デイトナビーチでボブ・バーマンが時速228.1km/hの世界記録を樹立し、この世界記録は1919年まで破られなかった。21.5L、OHV、200psという当時としては驚異的な性能を持つエンジンを搭載、しかもスマートでエアロダイナミクスなボディはホイールカバーが取り付けられ、空気抵抗の低減に寄与していた。
【1914年】表彰台を独占したメルセデス115PS
1914年、排気量は最大4.5L、重量は1100kg以下の新フォーミュラ(規定)が制定され、静まり返っていたところにメルセデス台風が吹き荒れ、メルセデスチームとして初めて組織的に行ったレースのフランスGPでは1-2-3位を独占した。
V型ラジエターが特徴で、エンジンは自社の航空機エンジンの実績を生かしSOHC、4.5L、4気筒4バルブと半球状燃焼室を持ち115psを発揮。また、1922年のタルガ・フローリオでも1-2位を独占し、「タルガ・フローリオ」のニックネームで親しまれた。
【1923年】ベンツのトロッペフェン・ヴァーゲン
ベンツの「トロッペフェン・ヴァーゲン」(Tropfenwagen)はドイツ語で水滴型の車。当時ベンツ社の技術陣を率いていたマックス・ヴァグナーは、航空機からの発想であるエアロダイナミクスの概念を取り入れた流線型のボディと世界初の4輪独立懸架サスペンションを採用。それらにミッドシップレイアウトを融合させた画期的なレーシングカーを造った。
2Lの6気筒DOHCで80psエンジンを現在のF1カーと同じミッドシップに搭載。路面をしっかり捕らえる独立懸架と優れた前後重量バランスをもたらすミッドシップの採用は当然の結果である。1923年のイタリアGPでは5~6位に入賞した。
【1927年】名車のレース仕様メルセデス・ベンツS
有名なフェルディナンド・ポルシェ博士が率いた時代のメルセデス・ベンツが放ったハイライトが、この「Sシリーズ」(S、SS、SSK、SSKL)だ。1927年、とくにレーシングバージョンのSはニュルブルクリンクのオープニングレースにおいて名手ルドルフ・カラッチオラがドライブし、平均101km/hで優勝。
次いでスポーツカーで行われたドイツGPでも1~3位までSが独占した。1931年4月には、SSKLを駆ってイタリアのミッレ・ミリアで優勝したルドルフ・カラッチオラは、外国人ドライバーとして初制覇という偉業を達成した。
【1934年】シルバー・アローの名が誕生したW25
昔のレースは出場国のナショナルカラーでボディ色が決められていた。イギリスはグリーン、イタリアはレッド、フランスはブルー、そしてドイツはホワイトだった。
しかし、フランスに本拠を置くA.I.A.C.R.(現在のFIA)が、1934年に新しいGPマシン規定を発表。重量は750kg以下に規定し、750kg制限時代に突入した。そして1934年にメルセデス・ベンツの常勝GPマシン「シルバー・アロー」が誕生。354psの「W25」は車両重量750kg以下となった新フォーミュラに合わせて開発されたが、規定より1kgだけオーバー。ドイツのナショナルカラーである白い塗装をはがし、アルミ地肌でレース車検をパスし初出場した。
そのアルミ地肌の銀色に輝くボディのマシンが、「シルバー・アロー」と呼ばれた最初のGPマシンである。この年、イタリアおよびスペインGPなどでも優勝し、翌1935年には7つのGPを制覇した。
【1937年】3Lのフォーミュラ規定を取り入れたW125
750kgフォーミュラは1936年までとされていたので、メルセデス・ベンツ技術陣は1937年から採用される予定の新3Lフォーミュラの設計試作を1936年より開始する。しかし、新3Lフォーミュラの最終決定が遅れた為、1937年は750kgフォーミュラが継続された。
そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は急いで、新フォーミュラ用として最高傑作車といわれる「W125」を完成させた。エンジンはW25の直列8気筒DOHC、ルーツ・スーパーチャージャー付きをさらに5.66Lにボアアップ。出力は1937年の初期モデルで600ps弱、後半には646psにも達し、そのスピードは433.7km/hを記録した怪物である。
シャシー開発はレーサーよりも速いエンジニアと言われたルドルフ・ウーレンハウトが担当。当時すでに生産モデルの「500K」および「540K」に使用して好評だったフロントダブルウィシッボーン&コイルの組み合わせを初めてレーシングマシンに採用する。リアは巨大なトルクに耐えさせるため、ド・ディオンとトレーリングアーム、そして縦置きトーションバーの組み合わせで、ダンパーはハイドロリック式を使用した。
彼はW25を自分でテストし、シャシーの欠点を十分に理解していたため、大規模な設計の転換を実施した。結果、ソフトな乗り心地と優れたロードホールディングを持ったこの新型W125はトリポリやドイツGPをはじめ、同年13レース中、7回も優勝。名手ルドルフ・カラッチオラが1937年・1938年に、そして1939年にはヘルマン・ランクがそれぞれヨーロッパチャンピオンに輝いた。
【1938年】アウトバーンで時速432.69kmの世界最高記録を樹立
ヒトラーがとくに自動車レースに力を入れたのは、これまでの全記録を打ち破って、ドイツの優秀性を内外に誇示しようとしたためだった。メルセデス・ベンツとアウト・ウニオンに資金援助をし、このドイツ両車はレースで圧倒的な勝利を獲得した。
1936年に入るとメルセデス・ベンツはV12、4.8L 540psエンジンを搭載した流線型のレコード・レーサーを造った(W25ベース)。1936年10月と11月にフランクフルト~ダルムシュタット間のアウトバーンで、名手ルドルフ・カラッチオラはクラスB(5L~8L)で計6つの世界記録を樹立し、最高スピードは371.9km/hを記録する。
しかし、当時のレースでドイツ勢のライバルであるアウト・ウニオンの流線型レコード・レーサーを駆ってベルント・ローゼマイヤーが1937年に406.3km/hの記録を達成した(「タイプCストリームライン」)。
そこで、メルセデス・ベンツ技術陣は面目にかけてもこの記録を打ち破るべく、1936年のレコード・レーサーのV12エンジンを5.57L、736psにまで拡大(W125ベース)。このクルマでカラッチオラは1938年1月28日、フランクフルト~ダルムシュタット間の完全に平坦なアウトバーンでフライングマイル436.36km/h、フライング・キロメーター432.69km/hのクラスB(5L~8L)の世界最高記録を樹立した。なお、公道上で出した最高速度の記録は現在も破られていない。
【1939年】1.5Lエンジンを搭載したW165
3Lフォーミュラの2年目、1939年は初めからメルセデス・ベンツとアウト・ウニオンのドイツ勢が独占。そこで、イタリア勢は自国のトリポリGP(イタリアの植民地リビア)をなんとしても勝ちとるために必死の策を練り、ついにイタリアのスポーツ・コミッションは「最後の切札」を打った。
つまり、トリポリGPでは1.5Lに制限すると発表。このクラスを得意とするのはマセラティやアルファ ロメオのイタリア勢。しかし、メルセデス・ベンツ技術陣はスペシャルプロジェクトチームを結成し、わずか8カ月で全く新しいマシン「W165」をローンチする。エンジンはV8、90度、1.5L、254ps、5速トランスミッションで274km/hをマーク。このトリポリGPで1位がヘルマン・ランク、2位はルドルフ・カラッチオラ。メルセデス・ベンツのエンジニアの意地と実力はフルに発揮され、人々に驚きと感動を与えた。
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今回は1939年までの主なレーシングカーを紹介した。1940年以降のモデルに関しては、またあらためて紹介していきたい。