【1955年】ミッレ・ミリアやル・マンで活躍した300SLR
W196の機構を使い、もうひとつのスポーツカー・エディションが同時に造られている。開発コードはW196Sで、通称「300SLR」と呼ばれた。エンジンのみスポーツカー・チャンピオンシップのレギュレーションに合わせ、3L・310ps仕様にチューン。
この300SLRのデビューは1955年のイタリアのミッレ・ミリアで、スターリング・モスとジェンキンソンのコンビが優勝したのは有名である(カーナンバー#722は午前7時22分にスタートした意味)。とくにル・マン・タイプは最も大きな特徴を持っていた。このル・マン・タイプはコーナー入り口で制動をかけるとき、リアの大型エアフラップが持ち上がり、高速サーキットでの厳しいブレーキングを助ける方式を採用。そのエアブレーキフラップを使用した姿はじつにダイナミックで、大いにル・マンの観衆を沸かせた。
【1955年】ル・マンの悲劇
1955年6月11日午後4時、マッジ伯のスタートの合図の元に60人のドライバーは一斉に自分のマシンに駆け寄った。早速、グリーンのジャガーに乗るホーソンが先頭に立つ。自分のマシンを限界ギリギリまで無理をさせる走り方だ。
一方、300SLRに乗ったファンジオは芸術と言っていいリズムのハンドルさばきで、ぴったりとホーソンに付いた。ストレートではジャガーが伸びる。だが、リアのエアブレーキを開いて急減速した300SLRはコーナーの手前で差を一気に詰めていく。
このようなレース展開でスタートしたが、6時20分、グランドスタンド前のストレートを3台の300SLRが200km/h以上のスピードで通過する際、前方のクルマが走路妨害にあってスピン。1台の300SLRが巻き込まれて大破し、その影響により観客席で多数の死傷者を出してしまった。
レース史上最大となったこの事故により、メルセデス・ベンツはその性能の限界を見極めずにF1を含む全てのレース活動を休止した。しかし、メルセデス・ベンツが長年レース活動で磨き上げた技術をプロダクションモデルに導入し、技術開発をするという目的を十分に果たしたものと言える。
その後、1956年からラリーに参戦したことはあったが、あの「シルバー・アロー」がサーキットに復帰するには長い時間を要した。そして、メルセデス・ベンツが再び参戦したのは1985年からであることはすでに知られている。それも最初はスイスのレーシングカー・コンストラクターであるザウバーのエンジンサプライヤーという目立たない形であった。
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そして現在は「シルバー・アロー」が本格的にF1レースに復帰し、大活躍しているのは周知の通り。メルセデス・ベンツのレーシングカーにも、すべてに一貫した哲学「最善か無」があるのだ。