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ル・マン3連覇したのはフェラーリではなく「マトラ」でした! 70年代の新レギュレーションで主役になったフランスのメーカーとは

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了

フォーミュラと並行してスポーツカーレースにも挑戦を開始

その一方でマトラ・スポールは、スポーツカーのメーカーらしく、その企業イメージを引き上げるためにモータースポーツ参戦を決め、サーキットレースではまずF3からレース活動をスタートさせています。F3ではジャン-ピエール・ベルトワーズを擁してフランスチャンピオンを獲得。F2でもフランスのナショナルチャンピオンを手始めにヨーロピアンチャンピオンに輝いています。そしてF1GPではジャッキー・スチュワートを擁するティレル・レーシングとジョイントし、参戦2シーズン目には見事チャンピオンを獲得することになりました。

フォーミュラで着実に頭角を現してきたマトラ・スポールですが、やはりル・マン24時間を頂点とするスポーツカーレースにも惹かれるものがあったのでしょう。しかしDBやオトモビル・ルネ・ボネといった頃とは時代も状況も異なっています。

とくにフォーミュラではF2からF1GPへとステップアップを考え始めた頃でしたから、やはりスポーツカーでも当時のマトラにふさわしいパッケージが求められていました。そこでジェットをベースにして試作マシンを製作した後、BRMの2L V8エンジンを搭載した「M620」を製作しプロジェクトは本格化。さらに1968年にはプロジェクトが一気に拡大・進捗していきました。

MS620・BRM

エルフ石油のスポンサードとフランス政府のバックアップが決定し、自らF1GP用に3L V12エンジンを完成させたことに加えて、スポーツカーの世界選手権自体が主役であるスポーツ・プロトタイプカーの排気量を3L以下に制限することになったのです。

こうなるとル・マン24時間の総合優勝に加えてスポーツカーの世界選手権でチャンピオンを獲得する可能性も見えてきたのです。そんな1968年シーズン用にマトラ・スポールでは1967年の主戦マシン「MS630」を使用し、BRMの2L V8エンジンを自ら開発した、F1GP用と基本的には共通の3L V12にコンバートした最新仕様のMS630をル・マン24時間に投入します。

テストでは不安材料も多かったのですが、学生運動や労働者のストライキの影響もあって9月に延期された本番では快走を見せて2位に進出し、24時間レースの21時間目までその順位をキープしたのです。ラガルデールら首脳陣のモチベーションは一層高まっていきました。

ただし5Lのエンジンが許されたスポーツカーの、車両公認のための最低生産台数が50台から25台へと引き下げられた結果、1970年と1971年のスポーツカー選手権とル・マン24時間はポルシェ917を軸に展開されることに。3L V12で戦うマトラ・スポールはさらに2年間も雌伏の日々を過ごさなくてはなりませんでした。

マトラ・スポールは予選から「横綱相撲」を見せつけた

そんなマトラ・スポールにとって1972年シーズンは、待ちに待った決戦の時となりました。大排気量のスポーツカーがシリーズ戦から締め出され、3Lのスポーツ・プロトタイプカー(呼称としては単にスポーツカーを名乗っていました)1本に絞られたのです。

ただしマトラ・スポールではル・マン24時間に全力を注ぐためにシリーズ戦をパスするほどの入れ込みようで、用意したマシンは新型の「MS670」を3台、バックアップ用に前年モデルの改良型、「MS660C」を1台、ル・マンに持ち込んでいました。

シリーズ戦を連戦連勝でタイトルを獲得したことで最大のライバルと目されていたフェラーリが、耐久性に問題が見つかったことで直前にエントリーをキャンセルしたこともあり、マトラ・スポールは予選から「横綱相撲」を見せつけたのです。

決勝でもスタート直後に1台のMS670がコンロッドを折ってリタイアしていましたが、残る2台フランソワ・セヴェール/ハウデン・ガンレイ組とアンリ・ペスカロロ/グラハム・ヒル組がトップを争い、少し遅れてMS660Cが続く展開がスタートから23時間近くも続きました。

MS660Cが最後の最後にミッショントラブルから後退したものの、2台のMS670は何度か順位を入れ替えながら24時間を走り切り、ペスカロロ組-セヴェール組の順にマトラは嬉しい初優勝を見事な1-2フィニッシュで飾りました。

マトラ・スポールに初優勝をもたらしたヒルは、F1GP(1962年と1968年のチャンピオン)とインディ500マイル(1966年ウィナー)に続いて世界三大レースを制した最初のドライバーとなりました。また翌1973年、そして1974年とマトラ・スポールはル・マン24時間の3連覇を果たすのですが、いずれもドライブしていたペスカロロが個人でも3連勝となる大記録を達成したのです。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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