無数の優勝を記録した最強グループCマシンだった
ル・マン24時間レースにおいて、1974年に初めてターボ・パワーを持ち込みポルシェ「911カレラRSRターボ」で総合2位を獲得、そして1976年には「936」で初めて総合優勝を飾ったポルシェは、以後もターボの性能を磨き上げていきました。1982年には、新たなグループC規定に則った「956」が登場するやいなや、1985年まで4連勝! 今回は「956/962C」を振り返ります。
車両規定の変更に素早く対処して投入されたターボのグループC
それまでグループ1(Gr.1)からGr.8(時代によってGr.1からGr.9)に分類されていた競技車両を、1982年からはGr.AからGr.E、およびGr.Nの6カテゴリーに分類するように変更されました。大まかに言うならGr.1とGr.2がGr.Aのツーリングカーに、Gr.3とGr.4がGr.BのGTカーに。そしてGr.5とGr.6がGr.Cの2座席レーシングカーに分類されることになったのです。
ポルシェの市販ロードカーとして初めてターボ・エンジンを搭載したポルシェ「911」(930型)をベースにポルシェ・ワークスはGr.4の「934」、Gr.5の「935」、さらにGr.6の936を開発。935と936ではル・マン24時間において1976年から1981年までの6年間に4勝を挙げ、ポルシェのターボ・エンジンのパフォーマンスを十分すぎるほどにアピールすることになりました。
そして車両規定が一新される1982年シーズンに向けてポルシェは新たにグループCの956を開発することになるのですが、これに先立って1981年のル・マン24時間では1976年から1977年にかけて2連覇していた936をベースに、ターボで武装した2.65Lフラット6を搭載して実戦テストを実施。見事総合優勝を飾っています。
このエンジンはじつは、インディカー・レース用に開発されていた2.65Lエンジンを耐久レース向けに仕様変更したもので、翌年から始まるグループCによる世界選手権に向けて投入が決められていたようです。そしてこのシーズンの世界選手権が、グループ6の3Lの制限が取り払われていたことも参戦の追い風となったことは間違いないでしょう。
その一方でシャシーに関しても大きなチャレンジ(技術革新)がありました。ポルシェのレーシングカーはそれまで、シャシーに鋼管スペースフレームを採用してきていましたが、新たに開発する956では初めて、モノコックフレームを採用することになったのです。
そこでポルシェでは同じくドイツの航空機メーカー、ドルニエからアルミモノコックを構成する際に適した素材や有効なリベットなど技術面でのノウハウを得ていました。ドルニエは、1985年にはダイムラー・ベンツ・グループの航空機部門として統合されていますから、開発があと数年遅れていたら、どうなったでしょうか?
サスペンションは前後ともにダブル・ウィッシュボーン式でしたが、リアはアッパー・アームをロッカーアームとして働かせてコイル/ダンパー・ユニットをアクスル・ケース上にマウントしたインボード・タイプとしていました。またこれもポルシェにとっては初となりますが、956はグランドエフェクトカーとして設計されています。
コクピットの下面にボディ幅×前後1mの平面(フラットボトム)を設け、ボディ後半部の底面をボディ後端に向かって跳ね上げる、いわゆるスウィーパーを装着するとともにフロントノーズ下面もフロントホイールの前端まで引き上げてディフューザーとするなど、ボディ下面(底面)全体でダウンフォースを稼いでいるのです。この空力パッケージはポルシェ956/962以降、レーシング・スポーツカー=グループCの、基本レイアウトにおける絶対的な公理となっていきました。
基準を定め、以後も磨きをかけ続けた最強最速のグループCカー
956のデビュー戦は1982年のル・マン24時間でした。この年から世界耐久選手権(WEC)とシリーズタイトルの変わったスポーツカーの世界選手権シリーズ第3戦でしたが、このシリーズにもレギュラー参戦することになるポルシェは開幕戦のモンツァ、第2戦のシルバーストン、そして第3戦のニュルブルクリンクをパスしています。
マシンが完成したのは3月でしたから、モンツァで4月中旬に行われた開幕戦には間に合ったはずですが、モンツァに出ることよりもル・マンに向けてマシンを熟成することを優先したのでしょう。その作戦は大正解でした。
デビュー戦となった1982年のル・マン24時間では予選から、956のパフォーマンスが炸裂します。ジャッキー・イクス/デレック・ベル組の#1号車がポールを奪い、僚友ヨッヘン・マス/バーン・シュパン組の#2号車がこれに続いてフロントローを独占したのです。
シリーズ第2戦のシルバーストンと第3戦のニュルブルクリンクを連覇し、956にとって最大のライバルと目されていたランチアLC1は、プライベートのポルシェ「936C」(チーム・ヨーストが936をベースにクローズドクーペにしたコンバートGr.C)を挟んで予選4位に#51号車のミケーレ・アルボレート/ロルフ・シュトムレン/テオ・ファビ組、同5位に#50号車のリカルド・パトレーゼ/ハンス・ヘイヤー/ピエルカルロ・ギンザーニ組が続き、決勝レースでの激戦が期待されました。
しかしレース序盤こそ独伊のワークス対決は盛り上がりましたが、ライバルのランチアがトラブルに見舞われると、あとはもうポルシェ956の独演会。#1号車イクス組のトップが安定し、そこに#2号車マス組が続き、予選3位を奪ったヨースト#4号車ボブ・ウォレク組の936Cを挟んでワークスの3台目、#3号車のユルゲン・バルト/ハーレイ・ヘイウッド/アル・ホルバート組956が続く大勢で終盤を迎えることになりました。
これでレースは決したかに思われたのですが、しかしまだ最後のドラマが残っていました。大詰めに来て#4号車にエンジン・トラブルが発生し後退。これで#3号車が3位に進出し、ポルシェ・ワークスはトップ3を独占、ゼッケン順に並びながらまるでパレードラップのような周回を重ねることになったのです。
負けなしの4勝を挙げてイクスがチャンピオン
956の活躍はデビューレースのル・マン24時間に留まることはありませんでした。1982年シーズンのWECの全8戦中序盤の3戦と第6戦のムジェロを除く4戦に出場し、負けなしの4勝を挙げてイクスがチャンピオンに輝くとともにメイクスタイトルも獲得しています。
ポルシェ・ワークスの圧倒的な速さと強さを見せつけられたライバル・メーカーはシリーズからの撤退を決断することになりましたが、ポルシェはワークスマシンをベースにカスタマー仕様の956を製作し翌1983年シーズンに向けて販売することを決定。
これで1983年シーズンのWECは、1982年シーズン以上に盛り上がることになりました。シリーズでは956が7戦7勝し、うち1勝はカスタマーのヨーストがマーク。ル・マンでもワークスが1-2で3位にカスタマーのクレマーが入って表彰台を独占しています。続く1984年シーズンも956はWECで11戦中10勝。未勝利の第10戦キャラミは、ワークスも有力プライベーターも不参加で1台のプライベーターが参戦していますが、ライバルのランチアLC1が1-2フィニッシュ。また10勝のうちヨーストとブルン、そしてGTiエンジニアリングが1勝ずつをマークしていました。
続く1985年シーズンには956の発展モデル(正確には956をIMSAの規定に適合させた962のGr.C版)の「962C」がデビュー。962はIMSAの規定に合わせてドライバーのフットボックスの安全性を確保するためにペダル位置がフロントアクスルより後方になるようホイールベースを延長(フロントホイールを前進)させたもので、他のメカニズムは956のそれをそのまま踏襲していました。
そしてIMSAのエンジン規定に則ってシングルカム(フラット6だからカムは2本)で気筒あたり2バルブのフラット6+シングルターボのエンジンを搭載していましたが、962Cは、そんな962のシャシーに956と同じツインカム(フラット6だからカムは4本)で気筒あたり4バルブのフラット6+ツインターボのエンジンを搭載し、最新にして最強最速、そして最も安全なGr.Cマシンでした。
1985年シーズンは全10戦中8勝をマーク
主戦マシンが962Cに代わった1985年シーズンは全10戦中8勝をマークし、翌1986年シーズンは9戦7勝で勝てなかったレースは、ワークスが唯一敗れてランチアLC2が優勝した第7戦のスパ-フランコルシャンと豪雨に見舞われポルシェを含め多くのチームが出走を取りやめ、星野一義がマーチ・日産をひとりでドライブして優勝した第9戦の富士、の2戦のみ。
さらに翌1986年は全9戦中7戦で勝ったものの、第2戦のシルバーストンではジャガー「XJR-6」に、第7戦のニュルブルクリンクではザウバーC8・メルセデス・ベンツに、それぞれ優勝をさらわれてしまいました。ライバルが着々と戦闘力を高めていたのです。
そして1987年シーズンにはジャガーが開幕4連勝を飾り、第5戦のル・マンはワークスが踏ん張って連勝記録を6に伸ばし、続く第6戦のノリスリンクではカスタマーのGTiエンジニアリングが勝ったものの、チャンピオンはジャガーに奪われてしまいます。
そして迎えた1988年シーズン、ワークスは第5戦ル・マンと第10戦・富士の2戦のみに参戦するも、ともにジャガーに敗れ、ル・マンの連勝記録も6でストップ。残る9戦もジャガーとザウバー・メルセデスが星を分け、ポルシェはシーズン未勝利に終わってしまいました。
ワークスが撤退した後も頑張っていたヨーストが1989年シーズンの第2戦、ディジョン-プレノワで勝ち、これが956/962Cとして最後の勝利となるかに思われましたが、1994年にドラマが起きました。車両規定の網の目を潜るように、962Cをベースにナンバー付きのロードカーを製作し、Gr.Cカーの962CをGT1クラスに編入させたのです。
Gr.Cは燃料タンク容量が80Lに制限されていますが事実上のGr.Cで、容量120Lの燃料タンクが許されるなら……。こんなアイデアから生まれた962Cの末裔、「ダウアー962LM」は見事優勝。956/962Cとして最後となるル・マン通算7勝目となっています。また956/962/962Cの3兄弟は、WECやル・マン24時間以外にも、例えばIMSAやJSPCなどのシリーズで活躍し、無数の優勝を記録しています。まさに最強Gr.Cでした。