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打倒ポルシェ! ジャガーが31年ぶりにル・マン24時間の王座を奪還するまでの長い道のりとは

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了/Jaguar Land Rover

着々と実力を高めていきル・マン24時間とWSPCも制覇

1985年シーズンのWEC第6戦、モスポートパークにデビューしたXJR-6は、2台のワークス・ポルシェに次ぐ3位でチェッカーを受け、デビュー戦にして表彰台の一角を奪ってみせました。しかしこれ以降はリタイアも多く、デビュー戦の成績を上まわることは難しかったのですが、最終戦ではワークス・ポルシェに次ぐ2位に入賞し、翌1986年シーズンの活躍に期待が高まります。

その1986年シーズンには、マシンのスペック的には大きな変化はありませんでしたが、タバコ・ブランドのSilk Cutがタイトルスポンサーとしてサポートすることになり、ポルシェのRothmansに対する「タバコ戦争」と一層注目を集めることとなりました。

しかし、その第一幕となった1986年シーズンは、ジャガーの競争力はまだ天下を取るには至ってなく、反対にポルシェの競争力も衰えを見せていませんでした。それは結果的にも明らかで、シリーズ第2戦のシルバーストンで復帰後初優勝を飾ったものの、残る8戦すべてでポルシェの優勝を許す結果となっていました。

続く1987年シーズン、TWRジャガーは主戦マシンをXJR-6から「XJR-8」へと進化。もっとも大きな変更点はエンジンでした。それまで6.5L(1986年仕様。1985年当初は6.2L)だった排気量を7Lにまで拡大、最高出力は720bhpに引き上げられていました。

ジャガーXJR-8

この変更(改良)点が功を奏したか、XJR-8は1987年シーズンの開幕戦となったハラマで見事デビュー・レース・ウィン。そして続く第2戦のヘレス、第3戦のモンツァ、第4戦のシルバーストンと開幕4連勝を飾りシリーズの大勢を決し、その勢いを継続してル・マン24時間を迎えています。

しかし、優勝が期待された1987年の第55回ル・マン24時間レースでは、956/962Cによる6連勝と、ポルシェとしての7連勝を狙って久々に参戦したポルシェ・ワークス相手にマッチレースを展開。ジャガーはトラブルで1台、また1台と脱落していき、ポルシェに連勝を許すこととなりました。

ディフェンディングチャンピオンとしてWSPCに参戦するとともに、引き続き挑戦者としてル・マン24時間に臨むことになった1988年。シルクカット・ジャガーの主戦マシンはXJR-8から「XJR-9」へと移行しています。

31年ぶりにル・マン24時間を制した

大排気量のNAエンジンをミッドシップに搭載するGr.Cカーという基本コンセプトには変わりありませんが、各部がブラッシュアップされ、競争力は一段と増していました。またグループ44レーシングが参戦していたIMSAのプロジェクトもTWRが担当することになり、XJR-9はXJR-8のIMSA仕様という側面も持っていたのです。

XJR-9の戦闘力は高く、ワークス不在で有力プライベートがオペレーションするポルシェ962Cでは全く歯が立たなくなっていました。その代わりに強力なライバルとなったのがメルセデス・ベンツのサポートを受けたザウバーでした。

彼らが使用するエンジンは5L V8ツインターボで、ポルシェの3Lフラット8ツインターボや、ジャガーの自然吸気(NA)7Lとはまた違った、ポルシェとジャガーの中間の排気量エンジンに低圧ツインターボを組み合わせるという新コンセプトでした。1982年からGr.Cマシンを製作し続けてきたザウバーが用意したC9とのパッケージングも上々で、開幕戦のヘレスではジャガーに先んじて優勝を飾っていました。

ただし地力では明らかにジャガーに分があり、第2戦のハラマから第3戦のモンツァ、第4戦のシルバーストンと連勝を重ねます。迎えたル・マン24時間ではザウバー・メルセデスが、予選中のアクシデント……ユーノディエールの直線を走行中に後輪タイヤがバーストしてクラッシュ。

その原因が解明できないことを理由に決勝レースへの参戦を取りやめていて、ジャガーは単独の挑戦者として王者……前年もル・マンに「スポット参戦」して優勝をかっさらっていったワークス・ポルシェに挑むことになりました。

予選では3台のワークス・ポルシェがトップ3を独占しましたが、決勝レースではスタート直後からヤン・ラマース組のジャガーがトップに立ち、これを僚友のジャガーとワークス・ポルシェが入り乱れながら追走する展開に。

一時はボブ・ウォレク組のワークス・ポルシェがトップに立ったこともありましたが、彼らがトラブルで後退して再びラマース組がトップに返り咲くと、ここからはトップを快走。一時はトラブルで後退したものの、再び2位にまで追い上げてきたハンス・シュトゥック組が最後の猛追を見せますが、ラマース組は、その追撃を振り切ってトップチェッカー。ジャガーとしては1957年のDタイプ以来、31年ぶりにル・マン24時間を制することになりました。

翌1989年にはXJR-9に加えて3L V6ターボ・エンジンを搭載した「XJR-11」も投入したジャガーでしたが、トラブルも多くシリーズでは第3戦ハラマでの2位入賞がベストリザルト。シリーズから外れたル・マン24時間でもザウバー・メルセデスに勝利を奪われてしまい、1年を通して未勝利に終わってしまいました。

続く1990年シーズンもWSPCではXJR-11が主戦マシンとなり、第3戦のシルバーストンで1勝を挙げるにとどまりました。ですが、やはりシリーズから外れたル・マン24時間ではXJR-11に換えてXJR-9の発展モデルである「XJR-12」を投入していました。

前年の勝者で最大のライバルだったザウバーは、レース活動をWSPCのシリーズ戦に絞っていてル・マン24時間をパスすることになり、新たなライバルとして日産が登場してきました。予選では日産が初ポールを奪って速さを見せましたが、決勝ではトラブルで次々と後退。XJR-9が1-2フィニッシュを飾っています。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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