ポルシェを打倒! ル・マン24時間を制したジャガー
ル・マン24時間レースで1982年から1987年まで、じつに6連勝を飾ったポルシェ「956/962C」。ほぼ同一メカニズムのクルマによる6連勝は他に例がなく、同車が最速最強のグループC(Gr.C)と呼ばれるゆえんです。しかし王者には必ず敗れるときが訪れます。ポルシェ956/962Cの場合は世界中のメーカーが「打倒、ポルシェ!」を合言葉に競争力を磨いて世界スポーツ・プロトタイプカー選手権(WET)を競い、またル・マンにこぞって参戦を続けてきました。そしてポルシェ打倒を目指したメーカーの、先陣を切ることになったのがジャガーでした。
TWRとジョイントしたジャガー、50年代の栄光再び
ジャガーといえば戦後の1950年代に、「XK120C」による初優勝や「Dタイプ」による3連勝など、都合5勝を挙げて一時代を築いたメーカーです。そして1961年に登場したロードモデルのスポーツカーも、レースにおけるDタイプの速さと強さを思い起こさせる「Eタイプ」と命名され、イギリスを代表するスポーツカーとして広く知られます。
そんな経緯を持つジャガーだけに、打倒ポルシェを合言葉に世界中のメーカーがこぞって参戦しているル・マン24時間を黙って見ているわけにはいかなかったのでしょう。ただし1950年代とはレースの内容も位置づけも様変わりしていましたから、ジャガーも自らレーシングカーを組み立てて参戦するのではなく、スペシャリストにワークス活動を託す格好でレーシングプロジェクトを進めることになりました。
相手に選ばれたのはトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)。北米においてジャガーでレースを戦っていたグループ44レーシングがジャガー「XJR-5」でル・マンにも参戦していましたが、ジャガー本社では「XJ-S」でヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)を戦い、1984年に見事チャンピオンに輝いたTWRを選ぶことになったのです。
TWRが製作したマシンは「XJR-6」。グループ44レーシングが1984年のル・マン参戦時に使用していたXJR-5と、その後継モデルとなった「XJR-7」と連番になっていますが、XJR-6はその両車とは全く無関係で、ジャガー製のV型12気筒エンジンを搭載すること以外に、メカニズム的な共通点も見当たりません。
またXJR-6は、ル・マン24時間レースやWECで圧倒的な王座を築いていた最強最速のグループC、ポルシェ956/962Cとはマシンに対するフィロソフィが大きく異なります。エンジンに関してはポルシェが2.65Lのフラット8をターボで武装していたのに対して、ジャガーはロードカーのXJ-Sや「XJ12」で使用されているシングルカムの6L V12エンジンを6.2Lまで排気量を拡大して搭載。
シャシーに関してもポルシェがアルミパネル製のツインチューブ式モノコックを採用していたのに対して、ジャガーはカーボンで成形されたモノコックを採用。フラット8に比べると、より効果的なV12エンジンを搭載していることから、グランドエフェクトに関してもポルシェに比べて大きくレベルアップしていました。
手がけたデザイナーはトニー・サウスゲート。フォーミュラの設計では数々の名車を手がけていて、AARのイーグルでインディ500マイルを制し、BRMのP153を手始めにF1GPでも数々の優勝を飾りました。そんなサウスゲートは1980年代にスポーツカーを手がけるようになり、フォードではGr.Cの「C100」やGr.Bの「RS200」を誕生させていて、いよいよGr.Cの主戦場に進出することになったのです。
着々と実力を高めていきル・マン24時間とWSPCも制覇
1985年シーズンのWEC第6戦、モスポートパークにデビューしたXJR-6は、2台のワークス・ポルシェに次ぐ3位でチェッカーを受け、デビュー戦にして表彰台の一角を奪ってみせました。しかしこれ以降はリタイアも多く、デビュー戦の成績を上まわることは難しかったのですが、最終戦ではワークス・ポルシェに次ぐ2位に入賞し、翌1986年シーズンの活躍に期待が高まります。
その1986年シーズンには、マシンのスペック的には大きな変化はありませんでしたが、タバコ・ブランドのSilk Cutがタイトルスポンサーとしてサポートすることになり、ポルシェのRothmansに対する「タバコ戦争」と一層注目を集めることとなりました。
しかし、その第一幕となった1986年シーズンは、ジャガーの競争力はまだ天下を取るには至ってなく、反対にポルシェの競争力も衰えを見せていませんでした。それは結果的にも明らかで、シリーズ第2戦のシルバーストンで復帰後初優勝を飾ったものの、残る8戦すべてでポルシェの優勝を許す結果となっていました。
続く1987年シーズン、TWRジャガーは主戦マシンをXJR-6から「XJR-8」へと進化。もっとも大きな変更点はエンジンでした。それまで6.5L(1986年仕様。1985年当初は6.2L)だった排気量を7Lにまで拡大、最高出力は720bhpに引き上げられていました。
この変更(改良)点が功を奏したか、XJR-8は1987年シーズンの開幕戦となったハラマで見事デビュー・レース・ウィン。そして続く第2戦のヘレス、第3戦のモンツァ、第4戦のシルバーストンと開幕4連勝を飾りシリーズの大勢を決し、その勢いを継続してル・マン24時間を迎えています。
しかし、優勝が期待された1987年の第55回ル・マン24時間レースでは、956/962Cによる6連勝と、ポルシェとしての7連勝を狙って久々に参戦したポルシェ・ワークス相手にマッチレースを展開。ジャガーはトラブルで1台、また1台と脱落していき、ポルシェに連勝を許すこととなりました。
ディフェンディングチャンピオンとしてWSPCに参戦するとともに、引き続き挑戦者としてル・マン24時間に臨むことになった1988年。シルクカット・ジャガーの主戦マシンはXJR-8から「XJR-9」へと移行しています。
31年ぶりにル・マン24時間を制した
大排気量のNAエンジンをミッドシップに搭載するGr.Cカーという基本コンセプトには変わりありませんが、各部がブラッシュアップされ、競争力は一段と増していました。またグループ44レーシングが参戦していたIMSAのプロジェクトもTWRが担当することになり、XJR-9はXJR-8のIMSA仕様という側面も持っていたのです。
XJR-9の戦闘力は高く、ワークス不在で有力プライベートがオペレーションするポルシェ962Cでは全く歯が立たなくなっていました。その代わりに強力なライバルとなったのがメルセデス・ベンツのサポートを受けたザウバーでした。
彼らが使用するエンジンは5L V8ツインターボで、ポルシェの3Lフラット8ツインターボや、ジャガーの自然吸気(NA)7Lとはまた違った、ポルシェとジャガーの中間の排気量エンジンに低圧ツインターボを組み合わせるという新コンセプトでした。1982年からGr.Cマシンを製作し続けてきたザウバーが用意したC9とのパッケージングも上々で、開幕戦のヘレスではジャガーに先んじて優勝を飾っていました。
ただし地力では明らかにジャガーに分があり、第2戦のハラマから第3戦のモンツァ、第4戦のシルバーストンと連勝を重ねます。迎えたル・マン24時間ではザウバー・メルセデスが、予選中のアクシデント……ユーノディエールの直線を走行中に後輪タイヤがバーストしてクラッシュ。
その原因が解明できないことを理由に決勝レースへの参戦を取りやめていて、ジャガーは単独の挑戦者として王者……前年もル・マンに「スポット参戦」して優勝をかっさらっていったワークス・ポルシェに挑むことになりました。
予選では3台のワークス・ポルシェがトップ3を独占しましたが、決勝レースではスタート直後からヤン・ラマース組のジャガーがトップに立ち、これを僚友のジャガーとワークス・ポルシェが入り乱れながら追走する展開に。
一時はボブ・ウォレク組のワークス・ポルシェがトップに立ったこともありましたが、彼らがトラブルで後退して再びラマース組がトップに返り咲くと、ここからはトップを快走。一時はトラブルで後退したものの、再び2位にまで追い上げてきたハンス・シュトゥック組が最後の猛追を見せますが、ラマース組は、その追撃を振り切ってトップチェッカー。ジャガーとしては1957年のDタイプ以来、31年ぶりにル・マン24時間を制することになりました。
翌1989年にはXJR-9に加えて3L V6ターボ・エンジンを搭載した「XJR-11」も投入したジャガーでしたが、トラブルも多くシリーズでは第3戦ハラマでの2位入賞がベストリザルト。シリーズから外れたル・マン24時間でもザウバー・メルセデスに勝利を奪われてしまい、1年を通して未勝利に終わってしまいました。
続く1990年シーズンもWSPCではXJR-11が主戦マシンとなり、第3戦のシルバーストンで1勝を挙げるにとどまりました。ですが、やはりシリーズから外れたル・マン24時間ではXJR-11に換えてXJR-9の発展モデルである「XJR-12」を投入していました。
前年の勝者で最大のライバルだったザウバーは、レース活動をWSPCのシリーズ戦に絞っていてル・マン24時間をパスすることになり、新たなライバルとして日産が登場してきました。予選では日産が初ポールを奪って速さを見せましたが、決勝ではトラブルで次々と後退。XJR-9が1-2フィニッシュを飾っています。