極めてトリッキーな操縦性に悩まされることに
1963年秋のフランクフルト・ショーにてデビューしたポルシェ901は、発表直後からつまづいてしまった。仏・プジョー社が取得していた、3桁の数字による車名の2桁目を「0(ゼロ)」とするという登録商標に触れるとして、「901」は「911」と改称されることになるのだ。
さらに「O(オー)シリーズ」と呼ばれる最初期型の911は、2211mmという歴代もっとも短いホイールベースと、4.5Jのか細いホイールをアピアランス上の特徴としていたが、じつはそれこそが初期モデルに起こった災厄の一因となってしまう。
このディメンションからも想像されるように、911の操縦性は非常にシャープで、一定のスイートスポットにハマれば、高度のロードホールディングと強大なトラクションを生かして素晴らしいハンドリングを見せる。ところが、問題のスポットが極めて狭いため、路面状況やドライバーの技量、車体の老朽化などの要因で破綻をきたすこともあり得る。つまりは、テールがブレークしてスピンに陥る恐れがあった。
これは、テールに重量物をぶら下げるリアエンジン車では当然のごとく起こり得ることながら、初期の試作車によるテストの段階では高度な組み付けのおかげで、操縦性に関する不満はほとんどなかったという。ところが、実際に生産に向けたプロトタイプが一定数(13台といわれている)試作される段階を迎えると、スキルの低いドライバーも乗り得る商品としては危険なほどにトリッキーな操縦性が顕在化するようになっていたとのこと。
それは生産工程での組み付け誤差を考慮せず、サスペンション各部にもステアリングにも本来一定値は必要な「遊び」が充分に取られていなかったことを前提に設計してしまった、トマラ技師の理想主義的過信によるものだった……? そんな見方が、現在ではなされているようだ。
こうなってしまえば、操縦安定性とスタビリティの確保のために、まずは車両前端に重量物を配置せねばならない。苦肉の策として試行錯誤の末に選ばれたのは、「バンパー補強材」と称する片側11kg(合計22kg)の鋳鉄製のバラストをフロントバンパー左右の裏側に取り付けて最小限のバランスを取り繕うという、世界的テクノロジー集団たるポルシェとしては、いささかお粗末ともいえる選択だった。
デビュー以来の「宿題」解決とともにポルシェ技術陣は新世代へ
ポルシェの命運を握る新型車、911に「失敗作」の烙印を押されてしまいそうなこの問題に抜本的な解決を見るのは、1968年秋に登場する「Bシリーズ」の発表を待たねばならなかった。この世代からはホイールベースが2268mmまで延長されるとともに、シリンダーブロックを従来のアルミニウムよりもいっそう軽量なマグネシウムとするなどの大々的な改良が施されたことにより、過度のリア偏重となっていたウェイト比率は大幅に下げられることになる。
さらに、それまでノーズ左側にあったバッテリーを6Vずつ2分割してノーズ前端左右に配置した結果、デビュー以来911を苦しめつづけた22kgもの鋼鉄の塊は、ようやくお役ご免となったのだ。
そして、その解決はフェリー・ポルシェやコメンダ博士など、ポルシェ博士とともに研究所を設立して以来、同社のテクノロジーを支えてきた旧世代のエンジニアから、前述のピエヒや、のちに世界最強のレーシング・スポーツを続々と送り出すヘルムート・ポッド、ノルベルト・ジンガーなど、新世代のエンジニアへの世代交代をも意味していた。
1966年、失意のトマラ技師はポルシェを去り、後任のテクニカルマネージャーにはピエヒ博士が就任することになる。しかし、ミスこそ犯したものの、911の基本設計を主に手がけたのもやはりトマラであり、その名誉は永遠に称えられて然るべきであろう。
そして、失敗作ともなりかねなかったポルシェ911を稀代の名車となるまでに育て上げた後輩エンジニアたちの努力も、永遠に語り継がれるべきものなのである。