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プジョー「905」がル・マンで表彰台を独占!「グループC」の最後を飾ったプジョーのレース史を振り返ります

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了/Stellantis N.V.

ライバル登場を受け革新を重ねるが、耐久性では天下一品

1990年のシーズン中盤に、1991年シーズンを戦うプジョーの主戦マシンとしてローンチされた905は、その時点でライバルからは革新的なマシンと捉えられていました。もちろん、プジョーのチーム関係者や開発を担当したプジョー・タルボ・スポール(PTS)の面々も、そんな自信を持っていたことでしょう。

ところが1991年シーズンの初戦、鈴鹿でジャガーの新型マシン「XJR-14」が公開された時点で、その自信は揺らぐことになりました。プジョーが、これまでのマシンから一歩踏み出したクルマを目指していたのに対して、XJR-14はさらに一歩先まで踏み出していたのです。

そこでPTSでは早速905の進化モデルを製作することを決断しています。1991年シーズンの開幕戦からは、ほぼ発表された当時のモデルを「905 Evo1」として参戦を続けながら、同時に進化モデルの製作が進められます。そしてシーズン第5戦のニュルブルクリンクでデビューを果たすのですが、「905 Evo1 bis」を名乗るその進化モデルはシーズン途中での改変と呼ぶにはあまりにも大がかりな進化を遂げていました。

ちなみにbisとはフランス語で「2番目の」とか「もうひとつの」という意味があります。つまり開幕から参戦してきたEvo1に対してさらなるEvo(進化モデル)という意味合いでしょうか。それはともかく905 Evo1 bisですが、空力に対する考え方がEvo1とは一新されていました。

コクピット後方のルーフ上に突き出したシュノーケルからエンジンにフレッシュエアを導入するスタイルは不変でしたが、Evo1ではそれ以外にはボディ上面にエアインテークを設けずに、ノーズから取り入れたフレッシュエアを、ボディ内面を通してエンジンの左右に置かれたラジエターに導いていました。Evo1 bisではノーズ上面からコクピットの左右に流れる外気を、コクピット両サイドのダクトで取り入れてラジエターへ導く一般的なスタイルに変更したのです。

プジョー905 Evo1 bis

さらに、少し切り詰めたフロントノーズの先には2枚翼で構成されたフロントウイングを装着するとともに、リアウイングも2枚翼となり大きくなった翼端板でトップウイングをサポートするスタイルとなっていました。

事実上はジャガーとの一騎打ちとなった1991年シーズンですが、開幕戦の鈴鹿で勝ったもののモンツァとシルバーストンではジャガーに敗れ、ル・マンではマツダの優勝を許すなどEvo1は苦戦を強いられています。しかしニュルブルクリンクでデビューしたEvo1 bisは、デビュー戦こそ2台揃ってリタイアしていますが、続くマニクールとメキシコ・シティでは2戦連続して1-2フィニッシュを飾るなど高いポテンシャルを見せつけたのです。

ル・マンではNA 7Lの旧規定Gr.Cを引っ張り出し、マツダに次ぐ2~4位を得たジャガーに対して、プジョーはNA 3.5Lのまま24時間に挑んで討ち果てていたことを考えれば、双方の評価はまた意見が分かれるところです。

1992年シーズンはライバルを圧倒していたプジョー

そして迎えた1992年シーズンは、プジョーのワンサイドゲームとなってしまいました。開幕戦のシルバーストンでは2台揃ってリタイアしてノーポイントに終わっていますが残る5戦では負けなしの5連勝で、うち2回は1-2フィニッシュ、ル・マン24時間では1-3フィニッシュとライバルを圧倒しています。

もっとも当初のカレンダーでは全10戦が予定されていましたが結果的には6戦となり、プジョーがシリーズを席巻したこともあって、このシーズンを限りに1991年から始まったSWCは終焉を迎えてしまいました。そしてそれは同時に、1953年から続けられてきたスポーツカーによる耐久レースの世界選手権にも終止符が打たれたことをも意味していました。

ただし世界選手権が行われようが行われまいが、ル・マン24時間レースは継続されています。そして1993年のル・マン24時間レースではNA 3.5LのC1クラスはプジョーとトヨタの一騎打ちとなりましたが、Evo1 bisに横置きの6速トランスミッションを組み込んだ「Evo1 C」を3台投入したプジョーが1-2-3フィニッシュで表彰台を独占したのです。

足かけ4年、実質2シーズンにわたるプジョーのグループCプロジェクトに有終の美を飾ることになりました。なお、空力を徹底的に追求した結果、一層奇抜なスタイルとなった「Evo2」は1992年のSWC最終戦、マニクールの予選に出走したものの、Evo1 bisより1秒以上も遅く、決勝では使用されていませんでした。

ただしこのEvo2で開発された横置き6速トランスミッションは1993年のル・マンで快勝したEvoCにも搭載されていて、表彰台を独占してプロジェクトに有終の美を飾る一助となったことを書き添えておきましょう。

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  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • 原田 了(HARADA Ryo)
  • ライター。現在の愛車は、SUBARU R1、Honda GB250 クラブマン、Honda Lead 125。クルマに関わる、ありとあらゆることの探訪が趣味。1955年、岡山県倉敷市生まれ。モータースポーツ専門誌の地方通信員として高校時代にレース取材を開始。大学卒業後、就職して同誌の編集部に配属。10年間のサラリーマン生活を経て90年4月からフリーランスに。モータースポーツ関連の執筆に加え、オートキャンプからヒストリックカーイベントまで幅広く取材。現在ではAMWに、主にヒストリー関連コラムを執筆。またライフワークとなった世界中の自動車博物館歴訪を続け、様々な媒体に紹介記事を寄稿している。
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