プジョーのグループCプロジェクトに有終の美を飾った
1982年から始まったスポーツ・プロトタイプカーによる世界選手権とル・マン24時間は、当初から王座に就いていたポルシェと、そこに挑むジャガーやメルセデス・ベンツ、そして日本のマツダとトヨタに日産という数多くのチャレンジャーが登場し、1980年代の後半に至るまで大きな盛り上がりを見せていました。ところが1991年から車両規定が変更され、グループCはすべてF1GPと同様に3.5Lの自然吸気エンジンのみに制限。今回は、新たなグループCに1990年代から新規参入してきたプジョーを振り返ります。
世界初のレースで勝った、最も長い歴史を誇るプジョー
プジョーのモータースポーツといえば最初に思い浮かべるのはラリーでしょう。グループB時代のWRCではミッドシップ+AWD、そしてターボ・パワー。欲しいものをすべて盛り込んだ「206T16」の活躍が見事でしたが、じつはそれ以前にもグループ4仕様のプジョー「504」をドライブしたオベ・アンダーソンやハンヌ・ミッコラがサファリやモロッコで勝っていることを、古くからのラリーファンならよくご存じでしょう。
それと同様に、プジョーはスポーツカーレースにおいても長い歴史を持っていて、1938年の第15回大会となったル・マン24時間では「402レジェール」をベースにした「ダールマ・プジョー・スポール」が2000cc以下のクラスで優勝し、総合でも5位に入賞を果たしています。
もっと言うなら1894年に行われた、世界で最初の自動車レースとされているパリ~ルーアン・トライアルにおいてパナール・エ・ルバッソールと優勝を分け合ったのが、ほかならぬプジョーでした。ちなみにパナール・エ・ルバッソールは1965年にシトロエンに吸収され、そのシトロエンも1974年からのPSAプジョー・シトロエンを経て、現在はイタリアのフィアット・グループと一緒にステランティスを形成していますから、いずれにしろ世界最初のレースで勝ったのはプジョー、と言って間違いではないでしょう。
それはともかくとしても、そもそも自動車メーカーとしてのプジョーは1882年に創設(会社の創業は1810年)されていて、当初からモータースポーツに積極的に参加していたという証明でもあります。そんなプジョーがメーカーを挙げて参戦していたWRCでグループBが終了すると、WRCから締め出された格好の206T16をベースに新たなマシンを開発してパイクスピーク・ヒルクライムやラリーレイドのダカール・ラリーに参戦。80年代終盤には連勝に次ぐ連勝、相変わらずの速さと強さを見せつけるまでになっていきました。
しかし決してそんな一強時代に満足することもなかったプジョーは、次なる活躍の場を求めて再びサーキットを訪ねることになりました。そして1991年からのスポーツカー世界選手権(SWC)に参戦すると発表したのです。
1991年からの本格参戦に備えて、1990年シーズン中盤には完成していたプジョーの主戦マシン、「905」はローンチを終えて1990年シーズンの終盤2レースに参戦しています。カナダのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで開催されたプレイヤーズと、リミテッド・モンディアルとメキシコのエルマノス・ロドリゲス・サーキットで開催されたトロフェオ・エルマノス・ロドリゲスです。
ともに1台のみの参戦で、デビューレースとなったカナダではリタイアに終わっていましたが、2戦目となった最終戦のカナダでは13位完走。マシンのコンセプトは、それまでのスポーツ・プロトタイプカーとは異なり、より「空力マシン」の様相を呈していました。「一皮剝いて」みるとモノコックはカーボンコンポジット製だったのですが、いくつかのパーツを使って組み立てる分轄式を採用しています。
しかも2シーターとしては細目(もちろんシングルシーターのフォーミュラと比べれば太めだったのですが!)でバスタブ(モノコック)のシェルがショルダー近くまで立ち上がっていたのが特徴的でした。搭載されたエンジンもレギュレーションに則った3.5Lの自然吸気で、完全な新設計だったのです。
SA35-A1と命名された905用のユニットは、排気量3499ccの80度V10でボア×ストロークは91.0mmφ×53.8mmと超ショートストローク・タイプ。最高出力は650ps/12500rpmと発表されていましたが、905の発展モデル「905B」に搭載されたユニットはSA35-A2と命名され最高出力も715psまで引き上げられていました。
ライバル登場を受け革新を重ねるが、耐久性では天下一品
1990年のシーズン中盤に、1991年シーズンを戦うプジョーの主戦マシンとしてローンチされた905は、その時点でライバルからは革新的なマシンと捉えられていました。もちろん、プジョーのチーム関係者や開発を担当したプジョー・タルボ・スポール(PTS)の面々も、そんな自信を持っていたことでしょう。
ところが1991年シーズンの初戦、鈴鹿でジャガーの新型マシン「XJR-14」が公開された時点で、その自信は揺らぐことになりました。プジョーが、これまでのマシンから一歩踏み出したクルマを目指していたのに対して、XJR-14はさらに一歩先まで踏み出していたのです。
そこでPTSでは早速905の進化モデルを製作することを決断しています。1991年シーズンの開幕戦からは、ほぼ発表された当時のモデルを「905 Evo1」として参戦を続けながら、同時に進化モデルの製作が進められます。そしてシーズン第5戦のニュルブルクリンクでデビューを果たすのですが、「905 Evo1 bis」を名乗るその進化モデルはシーズン途中での改変と呼ぶにはあまりにも大がかりな進化を遂げていました。
ちなみにbisとはフランス語で「2番目の」とか「もうひとつの」という意味があります。つまり開幕から参戦してきたEvo1に対してさらなるEvo(進化モデル)という意味合いでしょうか。それはともかく905 Evo1 bisですが、空力に対する考え方がEvo1とは一新されていました。
コクピット後方のルーフ上に突き出したシュノーケルからエンジンにフレッシュエアを導入するスタイルは不変でしたが、Evo1ではそれ以外にはボディ上面にエアインテークを設けずに、ノーズから取り入れたフレッシュエアを、ボディ内面を通してエンジンの左右に置かれたラジエターに導いていました。Evo1 bisではノーズ上面からコクピットの左右に流れる外気を、コクピット両サイドのダクトで取り入れてラジエターへ導く一般的なスタイルに変更したのです。
さらに、少し切り詰めたフロントノーズの先には2枚翼で構成されたフロントウイングを装着するとともに、リアウイングも2枚翼となり大きくなった翼端板でトップウイングをサポートするスタイルとなっていました。
事実上はジャガーとの一騎打ちとなった1991年シーズンですが、開幕戦の鈴鹿で勝ったもののモンツァとシルバーストンではジャガーに敗れ、ル・マンではマツダの優勝を許すなどEvo1は苦戦を強いられています。しかしニュルブルクリンクでデビューしたEvo1 bisは、デビュー戦こそ2台揃ってリタイアしていますが、続くマニクールとメキシコ・シティでは2戦連続して1-2フィニッシュを飾るなど高いポテンシャルを見せつけたのです。
ル・マンではNA 7Lの旧規定Gr.Cを引っ張り出し、マツダに次ぐ2~4位を得たジャガーに対して、プジョーはNA 3.5Lのまま24時間に挑んで討ち果てていたことを考えれば、双方の評価はまた意見が分かれるところです。
1992年シーズンはライバルを圧倒していたプジョー
そして迎えた1992年シーズンは、プジョーのワンサイドゲームとなってしまいました。開幕戦のシルバーストンでは2台揃ってリタイアしてノーポイントに終わっていますが残る5戦では負けなしの5連勝で、うち2回は1-2フィニッシュ、ル・マン24時間では1-3フィニッシュとライバルを圧倒しています。
もっとも当初のカレンダーでは全10戦が予定されていましたが結果的には6戦となり、プジョーがシリーズを席巻したこともあって、このシーズンを限りに1991年から始まったSWCは終焉を迎えてしまいました。そしてそれは同時に、1953年から続けられてきたスポーツカーによる耐久レースの世界選手権にも終止符が打たれたことをも意味していました。
ただし世界選手権が行われようが行われまいが、ル・マン24時間レースは継続されています。そして1993年のル・マン24時間レースではNA 3.5LのC1クラスはプジョーとトヨタの一騎打ちとなりましたが、Evo1 bisに横置きの6速トランスミッションを組み込んだ「Evo1 C」を3台投入したプジョーが1-2-3フィニッシュで表彰台を独占したのです。
足かけ4年、実質2シーズンにわたるプジョーのグループCプロジェクトに有終の美を飾ることになりました。なお、空力を徹底的に追求した結果、一層奇抜なスタイルとなった「Evo2」は1992年のSWC最終戦、マニクールの予選に出走したものの、Evo1 bisより1秒以上も遅く、決勝では使用されていませんでした。
ただしこのEvo2で開発された横置き6速トランスミッションは1993年のル・マンで快勝したEvoCにも搭載されていて、表彰台を独占してプロジェクトに有終の美を飾る一助となったことを書き添えておきましょう。